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「走って!」
その手に引かれるまま、矢子は走り出した。
目の前には、所々ピンが刺さったままの地毛を振り乱して疾走するユカの背中。
振り返ったら、あの男は呆れたように見ているか、睨んでいるか、走って追って来ているか。わからないから、とりあえず振り向かずに走ることに決めた。ユカも一切振り向かず、矢子の手をきつく掴んだまま走る。
夕方の駅前から、繁華街へ、景色はぐんぐん流れていく。
夢中で走るうちに、ふいに雷が轟き、ポツポツと雨が降り出した。
ゲリラ豪雨だ。
夏の夕方は天気が変わりやすい。予報では晴れだったはずが、急激に空を覆った黒い雨雲は、唸りをあげてあっという間に矢子たちのいる街を飲み込んでいく。
どんどん強くなる雨足に、人々が屋内へと逃げ惑う。痛いくらいの雨に時おり悲鳴のような声があがる。
その中を、脇目も振らず走り続けた。
視界が雨粒でけぶる。
跳ね上げた濁った水に足を取られてよろめき、薄暗い路地裏でようやく歩を止めると、駅からはだいぶ遠ざかっていた。『パパ』はきっと諦めて帰ったに違いない。
ふたりは汚れた壁に寄りかかると、全身で空気を貪るように荒く息づいた。
久しぶりの全力疾走は堪える。呼吸がなかなか整わない。
肩で息をしながら、矢子はユカに引かれたていた手を見た。いつの間にか、その手はしっかりと硬く繋ぎあっている。
矢子が驚くと、目線に気付いてユカが目だけで笑った。
彼は息を切らせながらそっと結んでいた手をゆるめ、矢子の濡れた指に、自身の少し筋張った指を重ねあわせるように這わせた。そして指先をわざと指の股に擦り付けるようにして絡ませ、恋人繋ぎにする。
濡れた皮膚が吸い付くように密着した。
彼は呼吸を整えながら、満足そうに微笑む。
矢子は酸欠とその『ユカ』らしくない仕草に、なんだかくらくらした。
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