7章

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* * *   発表を終えた子どもたちが退場してくる、舞台袖の階段を降りたところ。人気の無い細い通路の隅っこに倫子さんはいました。 「ミーチコせんせ」  廊下の先からやや間延びした呼び方をされてうっかり振り返ってしまった倫子さんは、すぐに両手で自分の顔を覆いました。  だって倫子さんは泣いた後で、目が腫れぼったく、化粧もぐちゃぐちゃになっていたんですもの。 「え?」  これは木下先生にとっても予想外の展開だったようです。驚いている木下先生に、倫子さんは言い訳するように状況を説明しました。 「英語が全然聞き取れなくて、何言ってんだか分からなかったんだけど、有紗は夢についての自由スピーチで私のことを言っていたのよ」  My mother is a history teacher.  I respect her.  I want to be like my mother.  ヒアリングが苦手な倫子さんなので、はっきり聞き取れたのはそれくらいの簡単な英文だけでしたが、仕事も子育ても一生懸命な母は素晴らしいと思う。だから私もそんな人になりたい、といった趣旨の話であることは分かりました。  あれだけ倫子さんをライバル視してだんまりを決め込んでいた有紗なのに、大きな舞台で母への想いを堂々と語ってくれたんですよ。  胸がギュッと熱くなりましてねぇ。  だって母のようになりたいだなんて、娘から貰える言葉の中では最大級の賛辞ですよ。  倫子さんは母として当然のことをやっていただけですが、認めてもらえるのはやっぱり嬉しいんです。  感動の嵐がおさまらない倫子さんは、そんなわけで舞台袖の下の狭い通路の脇でいつまでもぐすんぐすんやっていたのですが、そんな倫子さんに対し木下先生は何も言わず、優しい眼差しで包んでくれました。  その上、愛しげに倫子さんの体をそっと抱きしめ……じゃありません。  木下先生との距離感が急に近くなった、と倫子さんはびっくりしたのですが、スピーチを終えた学ランの男子中学生が3人通り過ぎていったので、道を譲るため壁に倫子さんを押し付けるような格好になっただけでした。  やだもう。突然のことで心臓が止まるかと思ったじゃないですか。  木下先生は学ラン組が通り過ぎると言いました。 「藤江さんたちはもう呼ばれて行きましたよ。確か、今通り過ぎた子たちの次ですね」  倫子さんは出場者の母であるという事情から舞台袖での観覧が特別に許されましたが、ここに大勢の先生がやってきたら混雑してしまうので、引率の教職員は控室の外、ホールの入り口に備え付けてある大型モニターで状況を観覧することになっています。  でも木下先生は倫子さんを探すという名目で、こちらの通路まで入らせてもらったよう。
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