7章

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 尿漏れって加齢だけが原因じゃないんですよ。  倫子さんの場合は恐らく、2度の出産で骨盤が緩んだせいでしょう。  『骨盤を緩んだままにしていると将来困ることになりますよ』と、産後に助産師さんから骨盤矯正ベルトを巻くよう勧められていたのに、面倒くさくていい加減にしていたんです。  どこをどう走ったのか、倫子さんはいつの間にか繁華街の大通りに出ました。  振り返ってみましたが、木下先生の姿はありませんでした。脚力で振り切ったというよりは、呆れ果てて追いかける気力も沸かなかった、ということでしょうか。  これ以上走る元気もなかった倫子さんは、肩で荒い息をつきながら、周囲の流れに混ざって歩き始めました。  そこにいる人たちはみんな朗らかで、楽しげで。街路樹なんて金色のキラキラ光る装飾が施されてとても綺麗でしたが、倫子さんの目には涙が滲んできました。  かつて倫子さんはまっとうな人生を歩みたいと思っていました。  子どもが夫がいて。そんな平凡でありふれた家庭を築きたいと思っていました。  だから若いうちに結婚したんです。  だって出産には現実的な年齢制限があるから。  いつ現れるかわからない運命の恋をのんびり待つよりも、若さという唯一の売りを使えるうちに、とにかく早く結婚して出産するしかないと思っていました。  でもあのときの倫子さんは知らなかったんです。  諦めてしまった恋愛にも年齢制限があったことを。40歳のこの体じゃ、恋愛もできないということを。  惨めな気持ちが、倫子さんの胸の中を埋め尽くしていました。  どうしてもっと若いときに恋愛をしておかなかったんでしょう。どうして隆さんと結婚する前に木下先生に出会うことができなかったんでしょう。  悔しさ、虚しさ、悲しさ……言葉にし尽くせない想いが津波のように心へ押し寄せてきますが、そんな中で倫子さんはふとスマホを取り出しました。  ショルダーバッグの中で震えたような気がしたからです。  スマホを立ち上げると、そこには1件の着信履歴と、その後に3件のメールがありました。  全て有紗からで『帰ってきました。お母さんは?』『今どこ?』『滉大がパンツが見つからないって言ってる。返事ちょうだい』という彼女らしい用件のみのあっさりとした文章が約10分間隔で並んでいました。 「はぁ……」  倫子さんは宙を仰ぎ大きく息を吐き出しました。  決してそれだけの動作で全てを切り替えることができたわけではないのですが、今はとにかく自宅(現実)へと帰るべきでしょうね。  こうして倫子さんは重い足を引きずるようにして、駅の方へと歩き始めたのでした。  
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