小菊

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小菊

 夢の中で私は竜馬だった。茶屋の2階で昼間から窓にもたれるようにして酒を飲んでいる。一斗樽飲んでも酔いつぶれる竜馬ではないはずだが、私の竜馬、いや竜馬の私はもうほろ酔い加減。  「世の中をもとからひっくり返さにゃどうもならんぜよ」  「いゃ、ぶっそうなこと・・・」  傍らで酌をしてくれている茶屋の女がいる。小菊と名乗った。    「恋と革命じゃきに!」  「何や太宰はんのようどすなぁ」  「みだりにその名を口にするでない」  「なんでどす?」  「まだこの世におわさぬ」  「戯言ばっかり・・・。恋と革命のお方がこんなとこで油売っててもよろしおすのやろか?お龍さんに怒られますえ」  「なぜお龍のことを?」  「さっきから寝言で何遍も聞かせていただきましたぇ」  「・・・・」  「よっぽどの想い人なんどすやろなぁ」  「そんな女は知らぬ」  そう言ったとたん、なぜか薩摩へ行ったときのことを思い出す。  あのときは楽しかったな。二人で湯につかって、お龍があんなにはしゃぐのを見たのは初めてだった。  下関で別れたきりのお龍は、どこでどうしているだろう?  思い出は時間をさかのぼっていく。  伏見の寺田屋でお龍が裸で狭い階段を駆け上がって飛び込んできたときは度肝を抜かれた。慎蔵の驚きようといったらいま思い出してもふき出してしまいそうだ。  お龍がいなくても、短筒がなくても、いまここにいる俺はなかった。  薩摩にも借りができた。そりゃ薩長同盟の意義は計り知れぬ。だがそれが本当に分かっているやつは、指折り数えるほどしかいない。薩摩の若い連中などは、いまだに俺のことをこころよくは思っていない。薩藩の主導でこの国を動かせると思っているから、負け犬の長州と対等に手を握らされたことが気に入らないのだ。  しかし西郷は他のやつとは最初から違った。とらえどころのない男だ。小さく打てば小さく鳴り、大きく打てば大きく鳴る・・・勝先生の使いではじめてやつに会ったときの印象はいまでも的外れじゃなかった。  お龍。  人はいつか死ぬ。いまを駆け抜けるるほかに、人の生きようはない。  庭を見下ろすと一叢の白い花が見える。一本一本が日に顔を向け、凛とした姿で立っている。  「あれは何という花だ」  「ここらでは貴船菊て言います。秋口に咲くよって秋明菊とも言うそうどすけど」  「姿の良い花じゃな」  「朝早うに見ると、気持ちがしゃんとします」  これから、この国はどうなる?  あの西郷でさえ、まだ薩摩から抜けきれぬ。俊輔や小輔のような小物では心許ない。宮部鼎蔵や吉田稔麿をやられたのは痛かった。どんな激動の時代になっても、結局は人だ。いや、益々人が大切になる。  西郷、大久保、桂、高杉・・・だが、みな奇妙に熱に浮かされている。そのくせ、薩摩だ長州だと狭い了見を捨てきれぬ。あれでは岩倉のような陰謀家にコロリとやられてしまう。岩倉は好かぬ。公家は苦手だ。  これから必要なのは横井小楠のような経世に秀でた見識をもつ者だろう。だが数え上げるほどには、頼りになる者がおらぬ。人材が圧倒的に不足している。勝先生のような人物がこちら側に一人でも二人でもいてくれたら、と幾度思ったことか。  「指にえらい怪我しはったんどすなぁ」  小菊が指の傷を指して言う。  「おなごに食いちぎられたんじゃ」  「ほんまどすか?そないなおなごはんがおいやすやろか」  「おぉ、おる、おる。やきもちやいて、男の指を食いちぎるんじゃ。」  「おぉこわ。そやけどそこまで想われたら男冥利に尽きますなぁ」  小菊は妙に感心したように言う。実はこの傷、寺田屋の一件で切り込まれたときの古傷だ。刀を抜く間もなく斬りつけられ、とっさに短筒で受けとめ、辛うじて逃れたが、あのとき指を削られ、血でぬるぬるになったために弾倉を取り落としてしまった。  お龍はあのときすぐに薩摩邸へ駆けつけて助けを求めた。ほんとうに機転のきく女だ。  だが、こちらは自分たちが無事に抜け出したために、お龍はとらえられて厳しく詮議されているのではないか、気がかりでならなかった。自分が見捨ててきたような後ろめたさでいっぱいだった。その後しばらくは、寺田屋に近づくことさえできなかった。  「お龍さんのことを考えておいでやすか」  言い当てられて、少し不機嫌になる。そむけた背中へ小菊は団扇の風を送ってくる。  「おなごは、男はんが思わはるほど弱いことはおへんぇ」  「・・・」  「一人ではとてもようおらんやろと思われるようなおなごでも、あんじょうやりくりしていくもんどすえ」  「はは、男はおらんでもええか・・」  「そら、旦那はんみたいなお方がそばにいてくれはったら、心強おすけど、一人になったらなったで、おなごは男はんより楽に生きられますよって」  なるほどな、と思う。  「男はんは男はんの夢があるやろし、それを追っかけていかはったらよろしのやおへんか」  「ええことを言うものじゃな」  「いややわ、からかわんといとくれやす」  振り向くと、小菊は背筋をぴんと伸ばしたまま口もとをゆるめてにっこり笑う。  「もうちょっとお休みやすか」  小菊はそう言って、膝を崩してにじり寄り、膝枕をしてくれる。  あぁ、いい匂いがするな、と思ううちに眠ったようだった。  「よう寝てはるわ」  声だけが聞こえている。目覚めそうでいて瞼が重く、そのまま再び眠りの渕に引きずり込まれていく。  と、足のほうから薄物をかけ、そっと立っていく気配がした。それが小菊なのか、お龍なのか、或いはまた妻なのかは分からなかった。                              (了)
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