71人が本棚に入れています
本棚に追加
/21ページ
その日は出張の土産を渡すため、友人が勤めるバーの扉を開けた。
季節は急に秋になり、衣替えが間に合っていない薄着の俺。室内の暖かさにホッと安堵した。
「おお、久しぶり」
マスターが上げた手に小さく頭を下げた。ジャズの流れる薄暗い照明の店内を見回すも、目的の友人はいない。
「ヤスは休みだよ」
「っすか。これ、食べてください」
「いつも悪いね」
渡した紙袋の中身を見て、マスターは「今回は上海に行ったの?」と笑顔になった。土産は焼き小籠包と老婆餅。ヤスとマスターの分、二箱ずつ。
「このヌイグルミは?」
マスターは、赤い帽子をかぶった小さなパンダを手に取って俺に見せた。
「それ、章太郎に」
「ウチの孫に?ありがとう」
彼の目元に笑い皺ができるとくすぐったくて、照れ臭い顔を見られないようについ口元を隠してしまった。
「座ってよ、一杯奢るよ」
「あざっす」
俺は遠慮なしにカウンター席に座って、ネクタイを緩めた。
店内には二組のカップルと、カウンター席の隅に一人で座っている同い年くらいの女の客。その彼女が「すみません」とマスターに声を掛けた。
あれ?
もしかして。
「根駒!?」
躊躇するより前に、声が出てしまった。
彼女も驚いたように俺を見る。
あの頃真っ直ぐだったセミロングの髪には緩くパーマがかかって、薄く化粧もしてるけど。
ほら、間違いない。
体内の温度が一気に上昇した。
ーー教科書、見せて。
あの日、仏頂面で頼んだ俺の机に、根駒は自分の机を寄せてくれた。コツンと当たった机の振動に心臓が跳ねた。
一緒の教科書を覗き込んで、当たらない程度にくっつけた腕。同じ場所を見ているだけなのに、やけに彼女を近くに感じて顔が熱かった。
高校三年生の秋。
根駒夢乃は俺の初恋の人だった。
最初のコメントを投稿しよう!