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7年前の秋。
この頃の私は、自身の抱える心の病に関し、全く理解を示さない父親との衝突が絶えなかった。
秋になると調子を崩すのには、理由があった。
2001年10月、予想だにしない出来事があり、強いショックを受け、私の精神は崩壊した。
毎日、希死念慮に苛まれた。
入退院を繰り返し、良い先生や仲間に恵まれ快方に向かったものの、この時期になるとその時のショックが蘇り、決まって調子を崩していた。
好きで病気になったわけでも、好んで薬を飲んでいるわけでもなく、11年もの間、通院を余儀なくされ、不眠と傾眠を繰り返す自分を持て余していた、あの頃…。
2012年10月18日。
時刻は20時くらいだったと記憶している。
何がキッカケで始まった口論なのか、今となっては思い出せないくらいなので、きっと些細なことだったのだとは思う。
しかし、ヒートアップした父親に言われたことは、よく憶えている。
「お前の病気は随分、都合よくできてるんだな!好きなことはやれて、イヤなこととなると調子が悪いって?甘えるのも大概にしろ!」
この一言に、抑えていた感情が爆発した私は、こう言い返した。
「は?何言ってんの?家のコトはきちんとしてるつもりだし、コレでもやりたいコトの半分は諦めてんだよ!!」
「家長の俺に逆らうのか?この家は俺が建てた家だ!そんなに不満があるなら、今すぐ出て行け!!」
事あるごとに『家長』という言葉を、伝家の宝刀のごとく振りかざす父親にウンザリした私、
「家長家長うるさいな!この家が建ったのは、あなた一人の力じゃないでしょ?お母さんがいたから建てられたんでしょ?なに言っちゃってんの?」
「なんだと?お前の腹の中はよく分かった!出て行け!今すぐ出て行け!」
父親のわめき声を最後まで聞かずに自室に戻り、荷物をまとめて玄関に向かったところで、再び父親と遭遇。
「まだいたのか!?すぐに出てけと言ったはずだ!!」
「だからこれから出て行くところ…」
靴を履きながら途中まで言いかけた私の胸倉を、般若のような表情をした父親が力任せに掴み、玄関の扉を開けると、ドンッと外に突き飛ばされた。
勢い余って玄関の外で尻もちをつく私に、追い打ちをかけるように、
「どこにでも行け!二度とこの家の敷居をまたぐな!!」
そう怒鳴りながら、荷物を詰めたバッグも玄関の外に放り投げてきた。
バタンとドアを閉める音と、内側からガチャリと施錠する音を聞き、ああ、文字どおり、自分は家から叩き出されたのだな…ぼんやりと、そう思った。
冷たい雨が降りしきる中、あてもなく家を出た私、とりあえずどこか落ち着けるところへ行こうと、大通りに出て、流しのタクシーを拾った。
行き先を訊かれ、とりあえず地元のターミナル駅までお願いすると、運転手さんが
「お姉さん、こんな雨の夜に大荷物抱えて、家出かい?」
「まあ、そんなトコです」
「あてはあるの?」
「ええ、暫くは友人のところへ…」
惨めな気持ちで、ありもしないことを言った。
運転手さんはそれ以上、詮索してくることはなく、目的のターミナル駅まで黙々と車を走らせ、降り際に、
「まあ、いろいろあるよね。元気出してよ!」
その言葉に、なぜか涙が溢れそうになったが、泣いている場合ではなかった。
ファストフード店に入り、熱いコーヒーをすすりながら、スマホで今夜泊まれる格安の宿を探した。
すると奇跡的に一件、条件にかなう宿がヒット。
一駅隣の、三谷と呼ばれる地域の一角にある、日雇い労働者向けの簡易宿泊施設だった。
かなり不安にはなったが、何しろ持ち合わせが殆どなかったので、スマホから予約を入れ、一駅電車に揺られて宿に向かった。
幸いにも駅から徒歩1分だったので、迷うことも濡れ鼠になることもなく、辿り着けた。
宿のオーナーに簡単に施設内を案内してもらい、連泊が可能か確認をして、とりあえず3日間、状況次第では暫くお世話になりたい旨を説明すると、特に理由も聞かずに快諾してくれた。
そんなわけで、叩き出される格好で家を出た私は、暫くこの宿で暮らすこととなった。
自分の意志で家を出るはずが、父親に叩き出されるという形になったことが、ショックだった。
そんな矛盾を抱えながら、ベッドに横になったものの、まんじりとしないまま朝を迎え、宿を出て銀行に向かった。
窓口で少々まとまった額を下ろし、足りない物の買い出しにターミナル駅まで行き、帰りに宿の立地を確認した。
近くにコンビニとファストフード店を見つけ、食べ物は何とかなると思った。
宿に戻ると、オーナーが施設の中の様子を改めて案内してくれた。
2階の客室内は2畳半、廊下には共同トイレと洗面所、電子レンジと湯沸かしポット。
1階には、シャワー室とコインランドリー、パソコン室と受付。
他の宿泊客は男性が多いのかな、と思っていたのだが、意外にも訳ありらしき女性が多く、男性は3割ほどだということに、2日目にして気付いた。
だからオーナーは、理由も聞かずに連泊を快諾してくれたのか…そんなことを思った。
狭い室内で独り、じっとしているのはかなり退屈で、家では殆ど観ないのにテレビがあればな…などと贅沢なことも考えた。
時間潰しと言えばスマホをいじることくらいだったのだが、半日もすると飽きてしまう。
毎日、午前11時頃に清掃が入るので、邪魔になっては…という気持ちと、とにかく退屈だったことから、2日目からは午前中に身支度をして、10時頃には外に出るのが日課になった。
ターミナル駅直結のファッションビルの中をぶらつき、要らぬ買い物をしたり、レストランフロアで食事をしたりと、最初の頃はストレス発散になると思い、景気よくお金を使った。
当たり前だが、そんな生活を4日も続けると、財布の中身は徐々に心もとなくなっていく。
贅沢をして懐が寂しくなることのほうがむしろストレスとなり、出掛けることはやめなかったが、ターミナル駅までは徒歩で向かい、不要な買い物は極力控えた。
朝は惣菜パン、外食は昼のみと決め、激安中華のチェーン店か牛丼店で済ませ、夜は部屋でカップ麺をすすった。
飲み物はミネラルウォーターと野菜ジュースを持てる分だけ買い込み、備え付けの冷蔵庫で保管して凌いだ。
生きていくには多少なりともお金が必要なのだということが、身に染みて分かった。
母親からは、毎日のようにメールが届いた。
「お父さんが、早く戻るよう言ってるよ」
もちろん父はそんなことを言う人ではなく、早く戻って欲しいのはお母さんなのだろうな…きっと不機嫌なお父さんに毎日、当たり散らされてるのだろうな…そんな風に感じ、申し訳なく思った。
そんなわけで、宿での生活を始めて1週間が経ち、自分の甘さを痛感した。
唯一、居場所を知らせておいた友人からは、そろそろ家に戻ったほうがいい、実家に住んでいる以上、多少なりとも我慢は必要だし、親とは折り合いをつけるべきだと諭された。
それがイヤなら、外に働きに出てお金を貯めて、独り暮らしをするべきだ、とも。
結局は、自力では生活が成り立たないということが分かったが、認めたくない私は、自分にこう言い訳をした。
(きっとお母さんが、困ってる。そろそろ帰ってあげなくちゃ)
自分の未熟さを認めて実家に戻れば、父親に負けたことになる気がしたのだ。
7日目の朝、荷物をまとめ、宿のオーナーにお礼を述べて、宿を出た。
家まで向かう間、とても気が重かった。
父親からは、帰宅するなりこのように言われた。
「ちょっと小言を言われただけで、こんな大仰なことをして家族に迷惑をかけて。二度目はないと思えよ!今日から普通に暮らしていい」
屈辱だった。
(家から叩き出したのは、アンタじゃないか…)
心の中は反発心でいっぱいだったが、友人から、何を言われても反省してるテイで聞き流すよう言われていたので、うつむいて下唇を噛みながら、ひたすら堪えた。
父親が仕事に戻ると、母親が洗濯物を干す手を止めて、
「あんなの気にすることないよ。よく戻って来てくれたね」
「うん…迷惑かけてごめんね」
「いいのよ、だって家族じゃない。ここはアンタの家でもあるんだから」
あれから、7年。
相変わらず、ワンマンな父親であることに変わりはないが、変化したこともある。
私のメンタル面を、気にするようになったのだ。
私は私で、父親への反発心が、ほぼなくなった。
たまに憎らしく思うこともあるが、上手く折り合いを付けられるようになった。
この時期になると毎年、調子を崩して寝込むこともある私だったが、今秋は大きな心の乱れもなく、過ごせている。
7年前に家を叩き出されたことは、今も少し恨みに思っているけれど、いい経験をさせてもらったと、プラスに考えるようにしている。
15年前に起こった辛い記憶を、7年前の経験が塗り替えてくれたのだから。
〈了〉
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