157人が本棚に入れています
本棚に追加
13
母が持ってきたのは、紅茶と二つのケーキだった。チーズケーキとモンブラン。
「桃ちゃん、どっちがいい?」
「智くんは?」
「俺はどっちでもいいから、桃ちゃんが選んでいいよ」
「わ、ありがとう。じゃあ、えっと……」
桃ちゃんは難しい顔をして、かなり長いこと悩んでいた。
そんなに悩むなら両方あげようか、と俺が言いかけたとき
「決めた、こっち!」
とようやくチーズケーキを選んだ。
「んー、おいしー」
桃ちゃんが幸せそうに、チーズケーキを頬張る。目を細めて呟くその表情も、本当に幸せそうだ。
「よかったね」と笑って俺もモンブランにフォークを沈めながら、まぶたの裏には、さっき見た春子の姿がちらついていた。
あの飛び出し方は、家の中で誰かと喧嘩でもした感じだった。春子はひとりっこなので、喧嘩するとしたら、おじさんかおばさんしかいないのだけど。
春子がおじさんたちと喧嘩している姿なんて、これまで一度も見たことはない。春子は基本的にいい子だったし、おじさんたちも穏やかでのんびりした人たちだったから。
もし、そんな彼らが喧嘩するとしたら。考えられる理由は、あれしかない。
「智くん、食べないの?」
向かい側に座る桃ちゃんが怪訝そうに顔をのぞき込んできて、我に返る。
いつの間にか、モンブランの三分の一ほどを食べたところで手が止まっていた。
「ああ、いや、食べる食べる」
「もしかして智くん、モンブラン苦手だった?」
いや、と首を振りかけて、ふと桃ちゃんの顔を見る。じっとこちらを見つめる桃ちゃんの目は、心配そうというより、どこか期待に満ちていて
「……あ、うん。実は。よかったら桃ちゃん、食べてくれない?」
「えっ、いいの?」
ぱっと桃ちゃんの顔が輝く。どうやら正解だったみたいだ。うん、と俺が笑ってモンブランを桃ちゃんのほうへ差し出すと
「あ、じゃあ、私のチーズケーキと交換しよう? ごめんなさい、半分ぐらい食べちゃったけど……」
「いや、いいよ。チーズケーキも桃ちゃんが食べて」
「え、でも」
「もうお腹いっぱいだから、俺」
実際、心配事と桃ちゃんが俺の部屋にいるという緊張のせいで、さっきから喉の通りが悪い。
「ほんとに? いいの?」
「うん。食べてもらえるとありがたいです」
じゃあ、と桃ちゃんはうれしそうに笑ってモンブランを受け取ると
「いただきます! ありがとう」
「どうぞどうぞ」
「うれしいな。私ね、実はちょっと後悔してたの。智くんの食べてるモンブランがすごくおいしそうに見えて。やっぱりモンブランにすればよかったかな、って」
なんとなく、それは感じていた。さっきから、ちらちらと視線が飛んできていたから。
桃ちゃんはちょっと恥ずかしそうに自分の手元に視線を落として
「私、いっつもそうなんだ」
「そうって?」
「人の食べてるものがね、おいしそうに見えちゃうの」
桃ちゃんははにかむような笑顔でフォークを手に取ると、もう一度、いただきます、と繰り返した。
ケーキを食べ終えると、桃ちゃんはまた、アルバムが見たいと言った。
「いつ頃のやつがいいの?」
「えっとね、じゃあ次は小学生の智くんが見たいな」
言われて、本棚からアルバムを探す。俺が大きくなるにつれ、写真を撮る機会は減っていったらしい。最初は一年でアルバム一冊分あったのが、小学生にもなると三年で一冊ほどのペースになっている。
「あ、春子ちゃんだ」
あいかわらず「かわいい」を連呼しながらアルバムをめくっていく桃ちゃんが、たびたび手を止めて熱心に眺めるページがあった。それは決まって、春子の写ったページだった。
「本当にずっといっしょにいるんだね、智くんと春子ちゃん」
「腐れ縁ってやつだからなあ」
こうしてアルバムを眺めていると、俺もあらためて実感する。三歳頃のアルバムも小学生時代のアルバムも。けっこうな頻度で春子が写り込んでいる。途切れることなく。
「途中で疎遠になることとかなかったの? だいたい小学校の高学年ぐらいで、あんまり男女で遊ばなくならないっけ」
「そういうのはなかったなあ、そういや」
春子のあっけらかんとした性格のせいか、あまりに小さい頃からいっしょにいすぎたせいか、そんな意識をすることもなくここまできてしまった。
きっと春子のほうもそうなのだろう。中学に上がるまで、俺のほうが春子より背も低かったし、どちらかというと、俺が春子に守られていたようなものだから。
「でも、よかった」
ふいに桃ちゃんがぽつんと呟いて、なにが、と聞き返せば
「そのおかげで、私は智くんと出会えたんだから」
噛みしめるような口調に、どきっとする。顔を上げると、桃ちゃんもこちらを見ていた。至近距離で視線がぶつかり、よけいに鼓動が速まる。
「実はね」
俺が返す言葉を探しあぐねているあいだに、桃ちゃんが悪戯っぽい笑顔で続ける。
「春子ちゃんのせいなんだよ」
「え?」
「春子ちゃん、いつもすごく楽しそうに話してたの、智くんのこと。そのときの春子ちゃんの顔見てたらね、私、智くんのこと気になるようになっちゃったんだ。あんまり話したこともなかったのに」
だから、と視線を落として桃ちゃんは言った。
「春子ちゃんが、悪いんだよ」
けっきょく桃ちゃんが俺の家に来てしたことは、ケーキを食べて紅茶を飲んで、俺の小さい頃のアルバムを見ただけだった。「すごく楽しかった」とは言ってくれたのでよかったけれど。
帰る間際、桃ちゃんはアルバムの中の写真を一枚くれないかと言ってきた。
「お願い。落ち込んだときとかに眺めて、元気をもらいたいの」
こんなので桃ちゃんが元気になるなら安いものだと思い、「いいよ、好きなの選んで」と俺はアルバムを差し出す。
真剣な顔で吟味した末、桃ちゃんが選んだのは、例の泣いている俺となぐさめる春子の写真だった。
「え、これでいいの?」
「うん、これがいい」
ほくほくとした顔で桃ちゃんは写真を見つめながら
「これがいちばんかわいいもん。泣いてる智くんも、お姉さんぶってる春子ちゃんも。すっごくかわいい」
まあ、桃ちゃんがそう言うのならそれでいいけれど。
その写真は、どちらかというと俺より春子がメインに写っていたから、少しだけ、寂しくなってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!