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 春子が帰ってこない、と青い顔をしたおばさんが家に来たのは、その日の夜だった。  時間は八時を過ぎていた。 「昼間、春子とちょっと喧嘩したの。あの子の髪のことで」  顔を強張らせ、おばさんが言う。少し震える声だった。 「そのときにちょっと、言い過ぎたのかも……あんなこと、はじめてで」 「春子ちゃんの携帯に連絡は?」  いつの間にかうちの家族は全員リビングに集まって、おばさんを囲んでいた。  母の質問に、おばさんは困ったように首を横に振って 「それがあの子、携帯も置いて飛び出していっちゃったもんだから……」  窓から見た、家を飛び出す春子の姿がまぶたの裏に弾けた。 「……すみません」思わず口をついていた言葉に、おばさんも、うちの家族も全員、俺のほうを見る。 「え、なにが?」 「や、春子のあの髪……俺のせいかもしれないから」 「どういうこと?」  訊いてきたのは姉だった。この姉の髪も、金色に近いぐらいの明るい茶色をしている。だけどこっちは、一度も親に怒られたことなんてない。  もしかしたら春子は、そんなうちの家族を見てなにか勘違いしてしまったのではないか。だとしたら、春子の金髪に対する責任は、うちの家族にもあるのではないか。  そんなことを考えていると、蒼白な顔でこちらを見つめるおばさんに、とてつもない罪悪感がこみ上げてきて 「まさか、あんたが春子ちゃんに染めろって言ったの?」 「そんなこと言うかよ。姉ちゃんじゃあるまいし」 「あたしだって言ってないから、そんなこと」 「でももしかしたら、春子ちゃん、ミカになんか変な影響受けて染めちゃったんじゃないかしら」  母も俺と同じような考えがよぎったらしく、申し訳なさそうに顔を引きつらせている。 「だとしたらごめんなさい。うちのせいで」 「いやいや貴子さん、そんなこと」 「とにかく」あわてたように母をフォローしかけたおばさんをさえぎって、俺は言った。  ソファに脱ぎ捨てられていた上着を拾う。 「俺、探してくる」 「あたしも」と姉が言った。 「……あんたが、カノジョなんて作ったせいじゃないの」  玄関で二人並んで靴を履いていたら、姉がぼそっと呟いた。 「は?」 「春子ちゃんの、あの髪。それがショックで染めちゃったんじゃないの?」 「……春子は、違うって言ってたけど」 「そりゃ春子ちゃんだって、はいそうです、とは言えないでしょ」  スニーカーの爪先をとんとんしながら、あきれたように姉が言う。 「春子ちゃん、どう見てもあんたのこと好きっぽかったし?」 「いや、ないって。いっかいきっぱり否定されてるし」 「だーから、そんなバカ正直に、うん好き、なんて言わないでしょうよ」  小学生じゃないんだから、と姉は心底うんざりした調子で呟いてから 「とにかく、今回の件は間違いなくあんたにも責任はあるんだから。なんとしても見つけなさいよ、春子ちゃん」 「わかってる」 「見つかったら連絡してね。あたし、街のほう行くから。携帯持った?」 「持った」  よし、とけわしい顔で頷いて、姉は車庫にとめてあった原付にまたがる。  姉が去ったあとで、俺はその奥にあった自転車を引っ張り出した。  昼間、俺が春子を見かけたのはたしか二時過ぎだった。おばさんの言い方だと、飛び出したきり、ずっと春子は家に帰っていないらしい。よく見えなかったけれど、あのときの春子はたしかTシャツにスウェットみたいな無造作な格好だった。あんな格好でずっと外にいるのか。  やっぱりあのとき、すぐに外に出て追いかけるべきだった。今更そんな後悔が胸を覆い、唇を噛む。  あてなんてなかった。とりあえず、いつも春子が道草していた児童公園に行ってみた。  暗い公園は静まりかえっていて、人の姿はなかった。  春子はおそらく財布もなにも持たず飛び出したはずだから、お金がかかるような場所には行けないはずだ。このあたりだと、駅前にももうひとつ公園がある。次はそこへ行ってみようかと考えながら、ペダルにかけた足に力をこめかけた。そのときだった。  ふいに、思い出した。  まだ小学校にも上がる前の頃。  いつも俺の前ではお姉さん然としていた春子が、めずらしく泣いていた日。  家に帰りたくないのだと、あの日の春子は駄々をこねていた。  俺はそんな春子の手を引いて歩いた。そんな立ち位置で歩いたのは、後にも先にもあの一回きりで、だからこそ記憶は鮮明だった。  なぜか奇妙な確信が湧いて、俺は駅のほうへ向かおうとしていた自転車を、方向転換させた。  住宅地のはずれに、その神社はあった。  途中迷いもしたのに、自転車を二十分ほど走らせただけで着いたことに、なんだか拍子抜けしてしまう。あの日は、とてつもない冒険でもする気分で、ここまで辿り着いたのに。  神社の前に自転車をとめたとき、ふいにポケットの中でスマホが震えだした。  まさかもう見つかったのかと思い、画面も見ずにいそいで電話に出ると 『――あ、智くん?』  電話の向こうから聞こえてきたのは、桃ちゃんの声だった。  思わず力をこめた指先から、いっきに力が抜ける。 「桃ちゃん?」 『智くん、今日はありがとう。楽しかったよ』  いつもと同じ明るい声で、桃ちゃんがしゃべりだす。  俺は自転車を降りると、鳥居につづく石段を上がりながら 「桃ちゃん」 『写真もありがとう。私、さっきからずっと眺めてるの。ほんとにかわいくて』 「桃ちゃん、ごめん」 『え?』 「今ちょっと忙しくて、話せそうにないんだ」  早口に告げると、電話口で桃ちゃんは一瞬黙ったあとで 『……え、あ、そうなんだ。ごめんなさい、忙しいときに』 「いや、こっちこそごめん。また明日、学校で」 『うん、また明日』  短くそれだけ告げて、通話を切った。  俺は足を進めながら、鳥居の向こうに目をこらす。  このときばかりは、彼女の金髪をありがたく思った。  外灯もない神社は塗りつぶされたように真っ暗で、それでも奥には、いやに目につくその明るい色が見えていた。
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