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「……よく覚えてたねえ」  俺を見つけた春子の第一声は、それだった。 「お前こそ」  言いながら、石段に座り込む彼女の隣に腰を下ろす。  春子は薄いロンティーにストレッチパンツを穿いていた。思いっきり部屋着だ。日中に比べ、だいぶ冷たくなった風が頬を撫でる。 「お前、寒くない?」 「ちょっと」  俺が着ていたパーカを脱いで渡そうとすると、春子はあわてたように 「いいよいいよ。そしたら智が寒いじゃん」 「いや、俺さっきまでチャリ漕いでたし、むしろ暑い」 「……そうか」  ありがとう、と呟いて春子はパーカを受け取った。男物にしては細身のそれも、彼女が着ると肩も袖もずいぶんあまった。  春子はすっぽりと指先まで覆ってしまったパーカの袖を見ながら 「智、大きくなったんだねえ」  なんてしみじみ呟いていて、俺は妙に気恥ずかしくなって目を逸らした。 「ここ、こんなに近かったんだなって思わなかった?」 「思った」  膝を抱えた春子が、暗い境内を見渡しながら、なつかしそうに目を細める。 「なんかびっくりしちゃった。あの日は、ものすごく遠くまで来ちゃった気がしてたのに」 「お前、大泣きしてたもんな」 「智だって泣いてたじゃん」 「泣いてねえよ」 「泣いてたってー」 「泣いてない」  ――じゃあ冒険しよう、と。  家に帰りたくないと言う春子に、あの日の俺はそう言った。  春子がめずらしく泣いていたものだから、たぶん俺は焦っていた。ただ、どうにかして泣きやませたくて必死だった。  だから春子が、いつも俺が泣いたとき、俺にしてくれていたように。俺は春子の手を引いて、歩き出した。  そうしているうちに、泣いていた春子も笑顔になったから。うれしくなって、調子に乗った。どんどんどんどん歩いていくうちに、いつの間にか、どこだかわからない場所まで来てしまった。  ああ、おわった。  最初にこの神社にたどり着いたときは、そんなことを思った。  それぐらい恐ろしかった。古びた鳥居も社も、生い茂った樹木も、そのせいで薄暗い境内も、ぜんぶ。子どもの目には、なんだかとんでもない場所に来てしまったように見えた。  だけど。 「絶対泣いてない、俺は」 「なにそんなむきになってるの」 「だって、絶対泣いてねえもん」  絶対に。  泣いてはいけないと思った。  春子が、隣で泣いていたから。唇を噛みしめ、必死にこらえた。それだけは覚えている。 「そうだったっけ」 「そうだったって」  納得できないらしく、思い出そうとするように、うーん、と首を捻っている春子に 「とにかく」  俺はポケットからスマホを取り出しながら、現実へ引き戻すように告げた。 「もう帰るぞ。みんな心配してんだから」  途端、春子はふっと真顔になって 「……お母さん、怒ってたでしょ」 「気にしてたよ。昼間、言い過ぎたって」  姉へ短いメッセージだけ送ってから、俺はまたスマホをポケットに突っ込むと 「お前さ」 「うん?」 「本当はしたくなかったんだろ。金髪とか」  春子は答えずに、うつむいてパーカの裾をいじった。  その子どもみたいな横顔に、ふいに幼い頃の春子の姿が重なる。いつだって俺の前にいて、俺の手を引いてくれていた頃の。 「……それさ、もしかして」  ふとよぎった考えは、気づけば口からこぼれていた。 「俺のため、とかなの?」  そしてそれは、口に出した途端に確信の色を帯びた。  春子は、俺に関係があると言った。だけど俺のせいではないと言った。  やりたくもないのに春子がこんなことをする理由なんて、もうそれぐらいしか浮かばない。 「それなら、やっぱ俺がなんかすればやめられるんだろ」  春子が顔を上げて俺を見る。そうして困ったように首を横に振って 「違うよ。智はなにもしなくていいから」 「……どうしても、教えてくんないの?」 「ごめん。言いたくない」  それだけ言って唇を結んだ春子の横顔は、やっぱり頑なだった。  俺はため息をついて立ち上がると、ズボンについた砂を払いながら 「じゃあ言わなくてもいいけど、おばさんが心配してんのはわかってやれよ」 「……うん」 「ショックに決まってんじゃん。春子が急にそんな髪にしてきたら」 「わかってる。私が悪かったから、今から家に帰って謝る」  そこは素直に頷いて、春子も立ち上がる。そうして二人で自転車のところまで歩いた。 「あのときはさ、智のお父さんが迎えに来てくれたよね」  後ろに春子を乗せて走り出す。  向かい風が顔に当たるけれど、不思議と、行きより冷たくない気がした。 「そうだったなあ」 「懐かしいなあ」  行きより重たくなったペダルを漕いでいると、肩越しに、しみじみと呟く声が聞こえてくる。 「なーんか」その声がふっと小さくなって、続いた。 「懐かしくて、泣きそう」  それは意図せず、喉からぽろっとこぼれ落ちたような声だった。  春子自身、こぼれたことにも気づいていないような。  だからこそ妙に切実な響きがして、俺は咄嗟に、聞こえなかった振りをした。
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