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「だからあ、わざとじゃなかったんだって」  階段を上がっていると、上から須藤さんの苛立った声が聞こえてきた。 「じゃあ、あんな強いボール投げることなかったじゃん」  同じぐらい苛立った調子の春子の声が、即座に続く。  だいぶ険悪なムードなのは、すぐにわかった。  特別教室ばかり並ぶ北校舎は、もともとひとけがない。そんな静かな校舎に、二人の言い争う声だけがいやに大きく響いている。 「素人はとれないよ、あんなパス」 「だから、試合だったからつい熱くなっちゃったの。桃ちゃんにも謝ったじゃん、ちゃんと」 「うそ。桃ちゃんだったからじゃないの?」 「はあ?」 「だってすーちゃん、前から桃ちゃんにきついじゃん、なんか」  どうやら春子は、俺が訊きたかったことと同じことを須藤さんに問い詰めているらしい。  一瞬須藤さんが詰まったあいだに、「前から言いたかったんだけど」と春子が畳みかけている。 「すーちゃんの桃ちゃんへの態度、ちょっとひどいよ。言い方とかさ、なんか棘があるっていうか」 「だって嫌いなんだもん、あの子」  悪びれもなくさらっと言い切られ、今度は春子が言葉に詰まったのがわかった。 「それ言うならさ」それを逃さず、今度は須藤さんが畳みかける。 「こっちも前からずっと言いたかったんだけど」  俺は二段とばしで階段を駆け上がった。二人の声は近い。渡り廊下は、階段を上りきった先を右に折れればすぐのところにある。 「なんで春子、あの子と仲良くしてんの? 理解できない」 「なんでって」 「あの子、智くんと付き合ってんだよ?」  階段を上りきり、二階の廊下に足が降りたときだった。急に出てきた自分の名前に、そのまま右へ曲がろうとした足を、思わず止めた。 「それがなに?」  春子は純粋にわけがわからないといった調子で聞き返している。 「なにって」それに須藤さんはますます苛立ったように 「春子、なんであの子が智くんと付き合ってんのか、ほんとにわかってないの?」 「なんでって、好きだからでしょ。お互いに」 「そんなわけないじゃん」  はっきりと言い切られた言葉に、完全に足が止まる。  嫌な予感がした。たぶん次に須藤さんが口にする言葉は、俺の心を抉りそうで。 「なんであの子が智くんなんて好きになんのよ。今までぜんっぜん関わりもなかったくせに」 「関わりなくても好きになることだってあるよ。桃ちゃん、言ってた。私が智の話をよくしてたから、聞いてるうちに気になってきたんだって」 「はあ? 話聞いてから? そんなんで好きになるわけないじゃん」 「なってもいいじゃん。実際、智にはそれだけの魅力があるんだから」  断言した春子にはあまりに迷いがなくて、俺は一瞬息を止めた。  だけど正直、今はやめてほしかった。そんなことを言うと、たぶん須藤さんが。 「はあ? ないから」  ほら。みじんも容赦なく反論してくる。 「そう思うのは春子だからだよ。春子だけ。はたから見てたら違和感ばっかりだから。ついこの前まで渋谷くんと付き合ってたような子が、なんで次智くんなのって。しかも春子と仲良くなった途端、急に。おかしいでしょ、どう考えても」 「おかしくないよ。私と仲良くなって、私から智の話を聴く機会が増えて、それで智の良さに気づいたってことでしょ。智の気が利くところとか優しいところとかいっしょにいると落ち着くところとか、そういうのに桃ちゃんも気づいたんだよ。なんにもおかしくない」  臆面もなく捲し立てる春子に、なんだか腹の奥がもぞもぞしてくる。顔が熱い。  壁の向こうで困り果てている俺のことなど知らず、二人はさらにヒートアップしていく。 「だからそう思うのは、春子だからだよ。春子が智くんのこと大好きだから。だからあの子だって、わざわざ智くんと付き合ってんだよ、どうせ。友達の好きな人とって楽しんでんの。性格悪」 「それはすーちゃんの想像でしょ。すーちゃんが桃ちゃんのこと嫌いだから、そんなふうに見えるだけで」 「むしろ春子が節穴すぎ。なんでそんなふうに見えないの? どんだけおめでたい頭してんの。春子だってほんとは嫌なくせに。あの子が智くんと付き合ってんの、むかつくくせに!」 「むかつかないよ! あの二人は両想いで、だから付き合ってるだけなんだから。なにもむかつくことなんて」  チッと須藤さんが舌打ちをした、と思った。  けれどその音は、妙に俺の近くから、そして背後から聞こえた。  振り返る。  そこにいたのは、桃ちゃんだった。  え、と間の抜けた声がこぼれる。 「桃ちゃんいつから――」  尋ねかけた俺の横をすり抜け、桃ちゃんが迷いなく壁の向こうへ進む。肩から鞄を降ろしながら。  かと思うと、鞄を持ったままの右手を、大きく振り上げた。ウサギのストラップがふわりと揺れるのが、妙にスローモーションで見えた。  がたん、と床に叩きつけられた鞄が派手な音を立てる。  驚いたように、二人の言い合う声が途切れた。 「ああもう」低く呟かれた声が誰のものなのか、一瞬わからなかった。 「うっざ」  だけど続けてそう吐き捨てたのは、間違いなく、桃ちゃんだった。
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