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 一瞬、聞き間違いだったかと思った。そうであってほしいと思った。  けれど俺のそんな咄嗟の願いも虚しく 「なに聖人ぶってんの?」  心底憎々しげな声が、さらに続いた。  はじめて聞くような低さの、けれど紛れもない、桃ちゃんの声で。 「むかつくならむかつくって言えばいいじゃん」  投げ捨てた鞄は放って、桃ちゃんが大股で二人のもとへ歩み寄る。 「ずうっと物欲しそうに見てたくせに。なんで認めないの? ほんっとイライラするんだけど、そういうとこ。その髪だって」  まくし立てる桃ちゃんがまっすぐに睨んでいたのは、春子だった。  あっけにとられたように固まる春子の頭を、桃ちゃんは苛立たしげに指さして 「そんなふざけた色にして、あからさまな傷心アピールまでしてるくせにさあ」  そこで春子は目を見開くと、我に返ったように声を上げた。 「そ、そんなアピールしてない!」 「じゃあなんなの、その髪。私が智くんと付き合いはじめた途端にそんなことされて、こっちは気分悪いんだけど」 「それ、は……」  言葉に詰まったように、春子が口ごもる。 「ほーらやっぱり」それに重なるように、須藤さんの声が割り込んできた。春子の前に立ち、人差し指を桃ちゃんへ突きつける。 「やっぱりあんた、春子の気持ちわかってたんじゃん。わかった上で横からかっさらったんだ、性悪」 「はあ? なにが悪いの?」  須藤さんのほうを向き直った桃ちゃんが、イライラと吐き捨てる。 「春子ちゃんが好きだったからなに? 好きなんだったら、ちんたらしてる春子ちゃんが悪いんじゃん。恋愛なんて早い者勝ちだよ。知ってるでしょ、それぐらい」 「いや、私は」そこで春子が口を挟みかけたのは、「はあ?」という須藤さんの怒りのこもった声にかき消された。 「信じらんない、春子は友達でしょ。あんた、良心とかモラルとかないわけ?」 「だって私はなにも卑怯なことしてない。ただ正々堂々告白して、オッケーもらっただけだよ。選んだのは智くんでしょ。春子ちゃんがいるから、って断りもせずに私と付き合ったんだから、それが全部だよ。要は私のほうが魅力的だったってだけでしょ」 「あんたはいっつもそうやって、人の好きな人に告白して、自分が選ばれたってことに悦に浸ってるだけじゃん。気持ち悪いんだよ。そんなんだから渋谷のときだって」  そこで軽く言葉を切った須藤さんの表情が、苦々しげにぐしゃりと歪む。 「たった二週間で別れて、別れた次の日には智くんと付き合いはじめるとか、そんなふざけたことができるんじゃん」  ……次の日だったのか。  あまり知りたくなかった情報がさらっと出てきて、俺がひとりショックを受けているあいだに 「勘違いしないでよ。私に付き合ってって言ってきたのは渋谷くんのほうだよ。でもつまんなかったんだもん。付き合ってみて合わなかったら別れるのは当たり前でしょ。別れたら次にいくのもなんか問題ある? 期間が被ってたわけでもないし」 「つまんないから捨てるとか捨てたら次とか、そんな人をものみたいに扱わないでって言ってんの!」 「ちょ、ちょっと……」  春子はもう横でおろおろしているだけだった。  俺にいたっては、圧倒されて壁の側から動くことすらできずにいた。  須藤さんの声が怒りに震える。さっきまでより実感のこもったその口調に、「ああ、なんだ」と桃ちゃんはなにかに気づいたように目を細め 「けっきょく須藤さん、渋谷くんのことで怒ってるんだ? 実際、春子ちゃんと智くんのことなんて本当はどうだっていいんでしょ」 「は?」 「――あのね、渋谷くんね、つまんなかったの」  まっすぐに須藤さんの目を見据えながら、桃ちゃんがふいに唇を歪める。 「私の行きたい場所には付き合ってくれないし、どんだけモテるのか知らないけど、付き合ってやってるみたいな上から目線なのもうざかったし。須藤さんも付き合ってみればわかるよ。二週間で別れたくなるから。……ああ、でもそっか」  そこで桃ちゃんの口元に浮かんだのは、ひどく底意地の悪い笑みだった。 「できないのか。須藤さんは好きだけど、振り向いてもらえないんだね。だから私に八つ当たりしてるんでしょ、けっきょく。ずっと」  目を見開いた須藤さんの頬が、かっと怒りに紅潮する。  次の瞬間には、右腕が振り上げられていた。  止める間もなかった。勢いよく振り下ろされたその手は、桃ちゃんの頬にぶつかる。  ぱん、と乾いた音が響いた。  横を向いた桃ちゃんが、わずかによろける。けれどすぐに足を踏みしめ、顔を上げた桃ちゃんは 「――いっ、たいな!」  怒りのこもった声で叫ぶと同時に、右手を振りかぶっていた。  今度は桃ちゃんの手のひらが、須藤さんの頬に勢いよくぶつかる。ぱん、と二度目の乾いた音が響いた。 「なにすんのよ!」  須藤さんも一瞬だってうつむかなかった。頬を手で押さえながらすぐに顔を上げ、激昂した目で桃ちゃんを睨む。 「先にぶったのそっちでしょ! 図星だからって私に当たんないでよ! 渋谷くんに振り向いてもらえないのは、自分に魅力がないのが悪いんでしょ!」 「うるさい! あたしだって、あたしだって最初はちゃんと祝福しようと思ってたのに! お似合いだって思ったし、これなら気持ちにケリもつけられるかもって! なのにすぐ別れて、別れたと思ったら次の男とか、そんなのふざけてるとしか思えないでしょ!」 「あんたの気持ちなんて知るか! つまんない彼氏捨てて次にいってなにが悪いのよ!」  耐えかねたように、須藤さんが再度腕を振り上げる。 「ちょっと!」桃ちゃんへ二発目の平手を食らわそうとしたその手を、春子があわててつかんだ。 「やめなよ、暴力は!」 「なんなのよ!」  須藤さんは春子のほうを見もせず、乱暴にその手を振り払った。顔を赤くして、まっすぐに桃ちゃんを睨みつけたまま 「まさか渋谷と付き合ったのも、あたしの気持ち知ってたからなの?!」 「だからあんたの気持ちとか知らないっての! まあ渋谷くんモテるみたいだったから、ちょっとはいい男なのかなって期待はしたよ。とんだ期待はずれだったけど!」 「なに、それで次は智くんだったってこと? 春子が好きな相手だから、いい男だろうって?!」 「そうだよ、渋谷くんがつまんなかったから次はもっとマシな男と付き合いたかったの! 誰かが好きになった男なら、それなりに魅力的なのかと思って。でも」  そこでふいに、桃ちゃんの視線がこちらを向いた。俺がまだぼうっと突っ立っていることを確認するように。俺と目が合うと、桃ちゃんは唇を笑みに歪める。それは突き放すような冷たい笑みだったのに、どこかぎこちなくも見えた。気がした。  その笑顔のまま、桃ちゃんは春子のほうへ視線をすべらせる。  そうして放り出すように、告げた。 「こっちも期待はずれだった。やっぱりつまんない」 「え」 「だからもう、智くんもいらない。これでいいでしょ。別れてあげるから、あとは春子ちゃん、好きにすれば」  ぱん、と。  三度目の乾いた音が響いた。  横を向いた桃ちゃんがゆっくりと手を挙げ、自分の頬に触れる。  桃ちゃんの正面に立っているのは、春子だった。  今し方桃ちゃんの頬を叩いた右手を持ち上げたまま、春子は泣きそうな目でじっと、桃ちゃんを睨んでいた。
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