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19
「ひどい」
絞り出すような声だった。上擦って震える、今にも泣き出しそうな。
「ひどいよ、桃ちゃん!」
肩を揺らして叫ぶ彼女は、まるで自分のほうが殴られたみたいな顔をしていた。
ぐしゃりと歪めた顔は、頬も目元も赤く染まっている。
「なにが?」
桃ちゃんは正面を向き直り、そんな春子を見た。
頬を手で押さえたまま、まっすぐに春子を睨む。
「なにがひどいの? ただ私が、私の彼氏を振るだけでしょ」
「ひどいよ! そんな簡単に、捨てないでよ! つまんないからいらないとか、そんな、もてあそぶようなこと!」
「べつに、もてあそんでない」
桃ちゃんはぎゅっと眉を寄せ、はっきりとした声で反論する。
「私は本気で智くんと付き合いたいと思って告白したもん。だけど付き合ってみたらつまんなかった。だから別れるだけだよ。それのなにが悪いの?」
「悪いよ!」
泣きそうな声で、春子が即座に突っ返す。充血した目に、涙がたまっているのが見えた。
「だって、だって智モテないんだよ。渋谷くんとは違うんだよ!」
宙に浮いたままだった右手を握りしめ、振り絞るように叫ぶ。
「智にとってははじめてのカノジョだったんだよ! 智、すっごく喜んで舞い上がってたのに。桃ちゃんのこと大事にしようって、あんなに頑張ってたのに! 智、桃ちゃんのことほんとに心配してたんだよ?! なにか桃ちゃんが困ってるなら、助けてあげたいって! それをなんで、そんな簡単にっ」
語尾は震え、かき消えた。喉を引きつらせた春子が、ぎゅっと唇を噛みしめる。
彼女の目から、耐えきれなかったように涙がこぼれた。頬を伝い、床に落ちる。
俺は途方に暮れたような気分で、それを眺めていた。一歩もその場から動けないまま。
うまく、息が吸えなかった。
「……は? なんで泣くの?」
桃ちゃんは眉をひそめて吐き捨てる。心底うんざりした声だった。
「喜べば? ほんとはうれしいくせに。大好きな智くんと別れてあげるって言ってんだよ? もっと喜べばいいじゃん」
「うれしいわけないじゃん! 智は、桃ちゃんが好きなんだよ!」
「あーうっざ。そういうとこ、ほんとうざいよね、春子ちゃん」
呟いて、桃ちゃんは苛立たしげに額にかかる前髪をかき上げる。「とにかく」ぐしゃり、きれいに整えられていた髪が乱れるのもかまわず
「春子ちゃんがなに言おうが、私はもう智くんと付き合い続ける気はないから。つまんないんだもん、智くん。つまんないから別れる」
「なに、なによ、つまんないって! そんなふわっとした理由で振らないでよ! 納得できないじゃん!」
「つまんないものはつまんないんだもん。他に言いようないでしょ」
「じゃあどこがつまんなかったの?! 智のどこが悪かったの?! ちゃんと具体的に言って!」
一瞬だけ、桃ちゃんの視線が足下に落ちた。そうして口の中でなにか呟いたようだったけれど、聞き取れなかった。
それは、なにかを迷うような間にも思えた。次の言葉を口に出すのをためらうような。
だけど一度強く唇を噛んだあとで、ふたたび顔を上げた桃ちゃんは
「――他の子のことばっか、考えてるとこだよ!」
「他の子?」
春子が一瞬だけ我に返ったように目を丸くする。
「智が? 誰を」
「いっつも春子春子春子って!」
本気でわかっていないらしい春子に、桃ちゃんがやけになったようにまくし立てる。
「よかったねえ春子ちゃん! その傷心アピールが大成功だよ! 智くんね、もう春子ちゃんのその髪が気になって仕方ないみたい。私といっしょにいるときもずうっと!」
ねえ智くん、と。
ふいに、桃ちゃんが俺のほうを振り返って見た。
つられるように、春子もこちらを振り向く。
俺を見つけると、春子は驚いたように目を見開いた。え、と小さく声をこぼす。
「智?」
「聞いてたでしょ、智くん。そういうことだから」
俺はあいかわらず、その場に立ちつくしたままだった。縛りつけられたように、一歩も動けずにいた。
桃ちゃんは落ちていた鞄を拾うと、こちらへ歩いてくる。
そうして俺の前に立つと、無表情に俺を見上げた。その口元が、笑みを作りかけたのがわかった。きっと、さっき春子へ向けたような、冷たい笑みを。
だけどそれは完成することなく、中途半端に崩れた。
不格好な作りかけの笑顔のまま、それでも口調は冷ややかに、桃ちゃんが言う。
「別れよ、智くん」
「……桃ちゃん」
「ばいばい」
素っ気なくそれだけ告げて、踵を返す。そのまま階段を駆け下りていく桃ちゃんの背中を、あわてて呼び止めようとしたら
「待ってよ、桃ちゃん!」
俺より先に春子の声がした。
春子も、桃ちゃんのあとを追おうと駆け出しかけたのがわかった。だけどそんな春子の腕を須藤さんがつかんで、止めていた。
「待った、春子は行かないほうがいいでしょ」
「でも」
「うん」静かに告げた須藤さんの言葉に、俺も頷く。春子じゃない。今、桃ちゃんを追いかけないといけないのは。
「俺が行くから」
春子のほうを見ると、真っ赤な目をした彼女がこちらを見ていた。濡れた頬には涙の跡がある。
前に春子の泣き顔なんて見たのは、いつだっただろう。すぐには思い出せなかった。春子はほんとうに、めったなことでは泣かない子だったから。もしかしたらあのとき以来かもしれない。俺が春子の手を引いて、神社まで連れて行った、あのとき。
だから目にした瞬間、動けなくなった。金縛りにでもあったみたいに、指一本動かせなかった。
春子が本気で怒って、傷ついているのがわかったから。あのとき、息が詰まった。まぶたの裏が熱く痛んで、そんな自分に動揺した。なにか、途方もないものを突きつけられた気がして。
きっと桃ちゃんは、気づいていたのだ。俺も、春子も、気づいていなかったことに。だから。
「俺が話してくる。ちゃんと」
――俺は彼女に、謝らなければならない。
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