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 刃が髪を挟む寸前、春子に手が届いた。 「バカかお前!」  夢中で彼女の手をつかみ、止める。 「だって」それに春子は心底焦った顔で俺を見た。見慣れた、まっすぐな目で。 「智のトラウマが増えたら大変じゃん!」  その迷いのない目に、息が止まる。  ああもう。なんで、なんでこいつは、ここまで。 「とりあえず、短くなれば大丈夫でしょ? 肩ぐらいの長さの金髪が駄目なんでしょ?」  気が動転したように、自分の髪を触りながらそんなことを言う春子に 「だからって、なんでいきなりそうなるんだよ! ああもう、お前はほんっと」  途方に暮れる。腹の底から、もぞもぞとしたくすぐったさが這い上がってくる。耐えきれなくなって、息を吸った。 「――どこまで、俺のこと好きなんだよ!」 「……へっ?」 「金髪にしたり桃ちゃんぶったり泣いたり! 俺のためにどこまですんだよ! お前、俺のこと好きすぎだろ!」  ぽかんとしていた春子は、そこでようやく理解が追いついたのか 「ち、ちが、違うし! なんでそうなるの?!」 「そうとしかならねえだろ! 好きじゃなきゃなんなんだよ。俺のためにここまでするって!」  真っ赤な顔で否定してくる春子に、もう半分やけくそになって叫ぶ。 「いい加減認めろよ! お前は、俺が好きなんだよ!」 「だから違うってば!」  だけど春子のほうも引かない。必死な声で言い募ってくる。 「なに自惚れてんのバカ!」 「だってお前ぜったい俺のこと好きじゃん! 渋谷くんにも負けてないぐらいかっこいいって思ってんだろ!」  ――実際、智にはそれだけの魅力があるんだから。  須藤さんに向けて、臆面なく言い放った春子の言葉を思い出す。  あれが、なんの嘘もない言葉だったことぐらいは、わかる。だてに長く付き合ってはいないのだから。  自惚れたくないと思っていた。自惚れないようにしよう、と思っていた。何度か、そうなのかなと思うことはあったけれど。だけどもう、ここまで決定的なものを突きつけられたらどうしようもない。自惚れなのだとしても、もう自惚れるしかない。 「かっこいいとは言ってない! 優しくて気が利くところは負けてないって思っただけ!」 「ほら! 負けてないっつってんじゃん! 優しくて気が利くから好きなんだろ!」 「違うってば! 好きとかじゃなくて、いや好きは好きだけど、そういう好きじゃなくて!」 「好きなら好きでいいだろもう!」  なんでここまで言うのに認めないのか。俺がイライラと頭を掻きむしっていると 「だって、そういうのじゃなくて、智は弟みたいなもんだから!」 「は、弟?」 「私たち、姉弟みたいなもんじゃん! 智、ちっちゃくて頼りなかったし、だから守ってあげなきゃって、それだけで!」  当然のごとく言い切られた言葉に、「はあ?」と俺は思わず目を瞠り 「いや、もんじゃんって言われても。俺は春子が姉とか思ったことねえよ。だいたいいつの話だよ、ちっちゃくて頼りないとか!」 「うそ! 私たち、ずっと姉弟みたいだって言われてたじゃん!」 「そんなの保育園の頃だろ! そんときはたしかに春子のほうがおっきかったし、しっかりしてたかもしんねえけど!」  今は、違う。背なんてとっくに俺が追い越した。小学校の高学年で成長が止まってしまった春子とは、もう20センチ近くの差ができている。それなりに鍛えてもいるから、どこもかしこも小さくて華奢なままの春子とは、身体のつくりも全然違う。  そんな春子に守られるなんて、冗談じゃない。  むしろ、今は。 「今は俺のほうがでかいし、なんか困ったことあっても自分でなんとかできるし! もし本当に桃ちゃんのことで男子から敵認定されてんだとしてもさあ、そんぐらい俺が自分でどうにかするっつの! お前に守ってもらう必要とかねえよ!」 「……え」 「だからいらない! 姉ちゃんとか!」  まぶたの裏に、さっき見た春子の泣き顔が浮かんだ。  15年いっしょにいて、春子が人を叩くところなんて見たのは、あれがはじめてだった。春子は基本的に、友達と喧嘩なんてしない子だったから。だからあんなに痛そうだったのだろう。叩いた自分のほうが。  もう見たくない、と。あのとき、痛烈に思った。  桃ちゃんの心配より、振られたショックより、あのとき、なによりまっさきに思ってしまったのは、それだった。  なにをするでもなく公園で時間をつぶす春子も、職員室から消沈した顔で出てきた春子も、夜の神社にひとり途方に暮れたように座り込む春子も。  もう見なくてすむのなら、なんでもしたいと思った。なんでもできると思った。それぐらい、彼女からは途方もないものを受け取ってきたことに、今更気づいたから。 「……そ、そっか」  顔を強張らせた春子が、うつむいて呟く。「いらないか」彼女がなにに傷ついているのか気づいた俺は、ああもう、とまた頭をがしがしと掻きながら 「そうじゃなくて!」 「え、なにが」 「いらないのは、姉としての春子ってことで! 春子はいるよ! これからもいる!」 「……へ?」  ああ、そうだった、と思う。  バカだった。15年間、俺は春子のなにを見てきたのだろう。変な嘘なんてつく必要なかった。伝えないといけなかったのは、ただ、 「――嘘だよ」 「え」 「フランス人形の話は、嘘!」 「え、あ、そうなの?」 「でも金髪が嫌なのは本当。ていうか」  顔を上げた春子の目を、まっすぐに見つめた。 「金髪が嫌っていうより、お前の金髪は嫌だ」 「あ、うん。似合ってないからでしょ?」 「そうじゃなくて、黒髪の頃のお前がかわいかったから」 「……へ?!」  すぐに逸らしたくなったのを、必死でこらえながら、言葉を継ぐ。できるだけはっきりとした口調で。 「金髪だとせっかくのお前のかわいさががた落ちだから、腹立たしい。せっかくならかわいい春子を見ていたいし、かわいい春子といっしょにいたいし」 「な、なに、なに言って」 「だから黒に戻してほしい。黒髪の春子が好みな俺のために」  最後まで、意地で春子の目を見つめたまま、言い切ってやった。  春子は真っ赤な顔で、目を白黒させていた。  震えながら挙がった手が、口元を覆う。そうして「意味わかんない」とか「なに言ってんの」とかしばらくもごもご呟いたあと、やがて耐えかねたように踵を返した。  勢いよく駆け出し、逃げるように公園を出て行く。   追いかけはしなかった。  きっと、春子の髪は近いうちにもとに戻るだろうから。  そしてそれが、彼女がけして認めようとしなかった、答えだろうから。
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