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07
二限目前の休み時間に、めずらしく桃ちゃんが俺のクラスにやって来た。
「智くん、日本史の教科書持ってる? 忘れちゃって」
尋ねられ、俺は引き出しを探る。授業の有無にかかわらず、基本的にどの教科書も置き勉している俺に死角はない。「どうぞ」求められた教科書を引っ張り出し、彼女に差し出すと、桃ちゃんはほっとしたように笑った。
「よかった、ありがとう! 一時間だけ借りてていい?」
「いいよ。今日うちのクラス日本史ないから、返すのはいつでも」
「そっか。じゃあ、昼休みに返すね」
両手で大事そうに教科書を受け取ってから、桃ちゃんが笑顔で言う。そうして、じゃあ、と踵を返しかけたところで
「あ、そうだ」
桃ちゃんは思い出したように足を止め、またこちらを向き直った。
「あのね」ちょっと身を屈め、内緒話をするみたいに声を落とす。
「今日はね、ちゃんとお弁当作ってきたんだよ」
「え、マジで」
つられて、俺まで内緒話をするようなトーンになる。
「俺の分も?」
「もちろん。だから智くん、今日はパン買わないでね」
「よっしゃ、了解です」
桃ちゃんははにかむような笑顔で、「じゃあまた昼休みに」と踵を返した。
だけど昼休み。中庭へやって来た桃ちゃんは、また、この世の終わりみたいな顔をしていた。
「ごめんなさい、智くん」
顔を合わせるなり頭を下げて、開口一番に謝られる。
「え、どうしたの?」
「その、お弁当……」
消え入りそうな声に、なんとなく嫌な予感を覚えつつ次の言葉を待てば
「やっぱり、あげられなくなっちゃった」
え、と俺は困惑して眉を寄せると
「どういうこと?」
桃ちゃんはうつむいたまま、困ったように口ごもっていた。なにも持っていない両手が、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
そのときふと、今日も桃ちゃんが、上履きではなくスリッパを履いていることに気づいた。
心臓が硬い音を立てる。昨日もこうして、俺の前でうなだれていた彼女の姿を思い出す。一瞬、嫌な想像がよぎった。
「……桃ちゃん」
俺は短く息を吸ってから、慎重に口を開くと
「もしかして、なんかあった?」
できるだけ落ち着いた口調になるよう気をつけて、尋ねてみた。
桃ちゃんは顔を上げ、俺を見た。そうして少しだけ迷うような間を置いてから、ううん、と首を横に振ると
「なにもないよ。ただ、落としちゃったの。お弁当」
「落とした?」
「うん、手がすべって、落としてひっくり返っちゃって。それで駄目になっちゃった。ごめんね」
困ったように笑う桃ちゃんの顔を、俺は黙って見つめた。
心配。
ふいに、昨日桃ちゃんが口にした言葉を思い出す。
思えば、桃ちゃんが春子以外の友達といっしょにいる姿を、俺は見たことがない。桃ちゃんといっしょにいるときに、誰か桃ちゃんの友達が声をかけてくるということも、これまで一度もなかった。思い返せば少し奇妙なぐらい、桃ちゃんの周りには人がいなかった。
「……桃ちゃんさ」
「ん?」
「もしかして、昨日も本当は、お弁当作ってきてた?」
尋ねると、一瞬だけ桃ちゃんの表情が強張った。
けれどすぐに、彼女はまた困ったような笑みを口元に戻して
「ううん、昨日は時間がなくて作れなかったの」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そっか、と呟いて、俺は足下に視線を落とす。桃ちゃんの履いている、革張りのスリッパを眺める。
今日も上履き忘れたの、とも訊きたかったけれど、訊いたらよけいに桃ちゃんが困った顔をする気がして、訊けなかった。
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