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ビュンっと、風を切って、男は高く高くジャンプをした。
そのとき私には、重たい風がのしかかってきたようだった。地面にぐいっと引っ張られて、殴られたかのような風の拳は痛かった。飛行機に乗るわけでもないのに地から足が離れるというのは初めての経験で、恐ろしかった。
落ちたらただじゃ済まない。命も落としかねない状況で、自分の命を預けているのは自称天狗と名乗る男。この男が私を抱く手を緩めれば終わり。
それでは安心して体を預けられるわけもなく、男の胸にしがみつくこともためらわれた。
震えが止まらない手のひらは汗でぐっしょりだった。
「ちょっとランドセル前で抱えてくれ、でかくて抱きづらい。」
男は小さな山の木の中で一番大きくそびえ立っていた木の枝に立ち、止まった。私の様な小柄な子どもであれば、優に立つことのできそうなほどに木の枝は太かった。落ちないようにということか、上半身を支えられたまま枝に降りる。
木の枝は、丈夫そうで少しもきしみは見せなかったがそれでも怖い。はるか遠くに見える地面を見下ろすと足がすくんで、ランドセルを抱え直すことなどできそうになかった。
「大丈夫。」
男は、しっかりとつかんでいる私の胴体を持ち上げて、向かい合い、私を抱っこするような体勢になった。母親が赤ん坊にするようなその体勢に、頬が熱い。
――これ、は、ちょっと恥ずかしい。
と、そんな風に頬を染めている私に気付いているのか、いないのか。男は、またぐようにして木の枝に腰を下ろした。
「ここ、しっかり手、回しといて。」
自分の首元を指さして言った男の言ったとおりに、私は男の首に両腕を回した。
「こっち、手、離せ。」
私の耳元。すぐ近くで聞いた男の声は距離を持ち、空気を隔て聞くよりも、ずっと大きく響いた。そのときの私は、ここが高い高い木の上で、一歩間違えば落ちるかもしれないなんて恐怖は忘れていた。怖さからではなく、耳にかかった男の声、それと、吐かれた息にふるりと首を震わせた。
「次、こっち。」
右肩からランドセルのベルトを外された後、今度は左腕を首に回すように指示される。一度両腕で男の首にしがみつくようにしてから、左腕を離した。父親に抱かれるのとは違う力強さに、私の心臓が揺れだした。
両肩から背負っていたランドセルの重みがなくなり、代わりに男がランドセルの両のベルトに右腕を通し、背負ったのだ。
「ま、これでいいか……。」
奇麗な大人の男の人が、チョコレートブラウンの色のランドセルを背負っている。その不釣り合いさに、私はくすりと笑ってしまった。
「なんだ?」
不愛想だった私が笑い出したことが不思議だったのだろう。男は不思議そうに小首をかしげたあと、顔を、私の顔に近づけてきた。
「ふっ……だって、似合わなすぎ、だよ……ランドセル……。」
私がそう答えると、男は目をぱちくりとさせて、数度まばたきをした。
「……結構、似合ってっと思うけど?」
得意気な顔で男が答えた。
「似合いません。」
笑いも落ち着いて、いくらか冷静さを取り戻した私は、さっきよりも強く否定をした。そして、男と顔と顔とを見合わせた。すると男も、ぷっと口をとがらせてふきだした。
少しの間、くすくすと二人で笑い合っていたら、男の笑い声がピタリと止んだ。
「……いい子に育ったんだな、おまえ。」
私を抱える左の腕はそのままに、男の右手が私の頭に伸びる。そして男は、ぽんぽんと頭を軽くたたくようにして、私の頭をなでた。
「小夜、です……沙耶、じゃなくて。『おまえ』でもありません。」
思っていた以上に、私は単純であるらしい。
ただ笑顔を見せられ、頭をなでられただけで、すっかり男を信用してしまった。
そして――ちゃんと名前を呼んで欲しいとも思ったから、本名を教えた。
「知ってるぜ? でも、うそはなぁ……あんま、かわいいもんじゃねぇから、気ぃつけろ? うそつくときは、どうしても必要なときだけにしとけ。」
さきほど教えた私の名は、うそだった。
そのことを、男は知っていると言ったのだ。
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