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男が立っていた枝を蹴り、空高く飛び上がった。その瞬間の恐怖すはぐになくなった。
雲を見上げ、一羽のカラスが目の端を横切ったのが見えた。そのぐらいの高さを飛んでいると、早さがゆったりとなった。
私がのんびり散歩をするぐらい、人が歩くぐらいの早さで空を飛ぶ。
風にたたかれるような痛さはなかなったが、私はこんなにも高い場所にいたことがない。
下を見るのは怖かったから、どこを飛んでいるのかはわからなかった。
「絶対落ちないから、見てみろよ、下。」
男のジャケットの襟を握りしめて、顔を男の胸元に押し付けていた私の頭頂部から響く声。その声を聞いて、ごきゅりと口内にあふれた唾を飲み込んだ。
男の胸元から、おそるおそる顔を離す。
「ゆっくりでいい。せっかくだから、ちょっとでも見とかねぇと、もったいないぞ?」
顔を上げ、男を見る。
すると、男の背後に大きく上下する翼が見えた。羽ばたく動きはゆったりとしていたが、羽根が動くたびに私の額にかかる前髪がさわっと揺れた。
首を動かして、おそるおそる下を見る。怖がりである私の目は、反射的に細くなった。
「……あれ?」
細めていた目を、大きく開いた。
今飛んでいる場所は、私が逃げ込んだ小さな山のすぐ近くだった。ここからなら私の住むマンションが見える。少し遠くに学校も見えて、通学路もすぐ下にあり、ぽつぽつと人影もあった。
そして、今日私が全力疾走で走り抜けた道路を、走っている子どもの姿が見えた。
「龍くんだ。」
空の遠くからなので、はっきりと顔は見えない。けれど、服の色、そのシルエットでそうとわかった。龍くんは右に左にと、首を動かしながら走っている。
――何してるんだろ?
しばらく龍くんの動きを見ていると、またカラスが私の目の前を横切った。学校の方へと向かっていたはずの龍くんは、くるりと向きを変えた。
そして今度は私の家の方へと向かって走り出した。
「小夜を探してんだろ。あいつの目の前でさらったからな。」
男の言葉に驚いた私は、えっと声を上げた。
「……っ、じゃ、ここにいるって教えないとっ……。」
私のお父さんもお母さんも、この時間は仕事でいない。けれど、同じマンションに住む龍くんのお母さんは家にるはずだ。もしも、親に連絡を……警察にでも連絡をされてしまったら、おおごとになってしまう。
「ねぇ、天狗さんっ。とりあえず、いったん下ろして、大丈夫だって言ってくるから! 警察に捕まったら、大変だよ!?」
焦った私は、男の服をぐいぐいと引っ張った。
「聞いたことねぇよ、警察に捕まった天狗の話なんてよ。」
と、私と反対に冷静な男。
そして私も確かにそうだ、と納得をする。
「で、こっから本題。あんま親に心配かけんのもあれだから……そうだな、三日間。三日間だけ、付き合ってくれ。」
そういえば、私を連れ去ったときも、同じようなことを言っていた。
「付き合うってどこにですか? 三日なんて、本当に警察っ……。」
すると、私の額に男の鼻と唇が触れ合う距離に男の顔が近づいてきて、早口で、まくし立てるように言った私は、途端に言葉が出てこなくなった。
「神隠し――親御さんたちには悪いが、どうしても、俺は小夜を今、さらっておきたい。もちろん三日後、無事に返す……約束だ。」
私の前髪から顔を離して、男は笑った。
その笑顔と向けられた真剣そうなまなざしに、はいとも、いいえとも、こたえることができなかった。
「あと、名前。俺には流星って名前がある。天狗じゃなくて、そう呼んでくれ。」
そう言われて、私はやっとでコクリとうなずくことができたのだ。
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