39人が本棚に入れています
本棚に追加
■
風は冷たかったが、速足で歩くと、少し汗ばむ。
今更ながら、浅木はなんで鞠枝のスマートフォンを持ってこいなどと言ったのだろう、と思う。もしかして、無理矢理僕からこれを奪ってデータでも消去しようというのだろうか? ……もう意味ないか、それは。
もし「鞠枝さんに返しておきますから、預かりますよ」とでも言われようものなら、僕は奴に掴みかかってしまうかもしれない。
僕は日々山公園のベンチに座り、腕を組んで、努めていかめしい顔を作った。
十五時、十分前。
いつでも来い。第一声は何と言ってやろう。
「あの」
「はい!?」
声を掛けられて、つい大きな声が出た。目の前には、中学生くらいの女の子が立っている。
「す、すみません私……ご気分でも悪いのかと思って」
「い、いえこちらこそごめんなさい。失礼しました、大丈夫ですから」
親切な子に、悪いことをした。腕時計を見ると、五分前だ。
「あの」
「はい!?」
また顔を上げると、そこには小太りの中年男が立っていた。だらしなく皺だらけのネルシャツを羽織っており、お世辞にも格好いいとは言えない。
ええ……。鞠枝、これはないぞ。
「お兄さん申し訳ないが、そこを少し横へどいてくれませんか。紅葉の写真を撮りたくて」
「はあ」と、また肩すかしだ。
「あの」
今度こそ浅木か。
キッと睨むと、そこには二十代半ばと思しき女の人が立っていた。
「あ、失礼しました」と慌てて謝る。
女性は「隣、よろしいですか」と僕の脇を指差す。
「もちろん。僕はちょっと待ち合わせしているだけなので、相手が来ればすぐにどきますから」
女性はちょこんと僕の左に腰を下ろす。長い黒髪が風に揺れた。淡いグリーンのカーディガンに、アイボリーホワイトのロングスカートが似合っている。
とうとう、十五時になった。だが、周囲に男の姿はない。
「遅刻か。いい度胸じゃないか」
つい独り言をこぼすと、隣の女性が僕を伺ってきた。下から覗きこんで来る薄化粧の顔は、派手ではないが、かなりの美人だ。
「十五時にお待ち合わせなんですか?」
「ええ、まあ」と、僕は正面を向いたままぞんざいに答える。
「どなたと?」
まさか、恋人とスマホアプリで出会っちゃってる男ですとは言えない。
「いえ、ただの知人ですよ」
「もしかして、恋人さんとスマホアプリで出会ってしまっている、浅木ハルオですか?」
僕は、がばっと顔を上げて、彼女の顔を正面から見た。
向こうもまっすぐに僕を見ている。視線がぶつかり、互いに互いの瞳を覗き込んだ。
秋の陽を映し込みもしない、黒い、丸い瞳。
まさか。この人は。
疑いはすぐに確信に変わった。間違いない。
女性は、おずおずと言ってきた。
「末実といいます。浅木の、妻です」
最初のコメントを投稿しよう!