月夜の幻想曲(ファンタジア)

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月夜の幻想曲(ファンタジア)

 一夜を共にしたわけでもなく、ただの相棒の女。朝食も終えたというのに、リンレイがレンの部屋から出てゆくことはなかった。  彼も彼で、それを少しおかしいと思っていたが、(まゆ)の繊維が蜘蛛(くも)の巣のように引っかかるように、彼女を追い出そうとする心を包み込み、どこかへやってしまった。  雨は相変わらず、打楽器を力任せに鳴らすようなフォルティッシモで、窓ガラスに叩きつけては拒まれ、残念無念というように白い雫を涙のように残して滑り落ちてゆく。  重くたれ込める灰色の雲より高くにある空で、太陽は西へと次第に傾き、時は過ぎてゆく。  リピートし続けていたヨハネ受難曲は本当に終章を迎え、悲哀の熱情のようなヴァイオリンの音色が部屋を飛び跳ねては落ちてに変わっていた。  身を引き裂くような運命に打ちひしがれて、立っていられないほどの眩暈(めまい)を覚え、崩れるように座り込むような旋律。瞳に溜まった涙が寒さに凍えるようにゆらゆらと揺れるような弦の震え。  白いバスローブはレンの体からいつしか消え、完璧と言わんばかりの全身黒のシャツと細身のズボン。ゴスパンクロングブーツはベルトのバックルが幾重にも整列し、リズムを取るたびに金具が歪む。  ベッドに腰を下ろしたままうかがい見る。記憶にないのに、知っている女を。斜め向こうのふたりがけのソファーに身を埋めて、ラッグから適当に取った雑誌をめくっては、リンレイは読んで楽しんでいる。  朝食に話したきり何も言わず、それぞれのことをして過ごしている。それなのに、心地よい安心感で、これがよく言う、空気みたいな存在なのだろう。当たり前にそばにあるが、ないと困るもの。  しかし、やはりおかしいのだ。前にもこうやって、同じ空間を共有したことがある、そんな気にさせる。だからこそ、レンは必死に思い出そうとする。  いつのことだ?――  落ちてくるブラウンの長い髪を手でかき上げ、背中へ落とし戻す仕草。サイドテールに置いてあるマグカップを雑誌に気を取られながら、飲もうとして火傷する行動。  どこで見たんだ?――  既視感(デジャヴ)。この言葉がしっくりくる。  出口の見つからない迷路を何度も同じ場所へ戻り歩いているようで、密かに地底深くで活火山が活動するように怒りのマグマが腹のあたりで、グツグツと煮立つ。  知らず知らずのうちに、左の指先が何かを押さえるように動き出した。レンは自分自身の行動さえ霧に煙るようにわからなくなってゆく。  俺は何をしている?―― 「これ何て曲?」  リンレイに問われた、レンの綺麗な唇からスラスラと曲名が出てきた。 「バッハ シャコンヌ 無伴奏ヴァイオリン パルティータだ」 「長い名前ね。覚えるのが大変だわ」  雑誌から視線も上げず、文句だけが聞こえた。こんな簡単なことも知らないとはと思い、レンは鼻でバカにしたように「ふんっ!」と笑い、言葉を説明しようとしたが、 「シャコンヌは曲の形式――」 「ずいぶん詳しいわね。どうしてかしら?」  開きっぱなしの雑誌の上で、頬杖をついたリンレイに問われた、レンは口をつぐんだ。 「っ……」  指摘されてみればそうだ。自分は悪魔の殺し屋。それなのに、クラシックを好む。それはおかしくない。だが、曲の構成まで答えようとするのは、少し行き過ぎているようだった。  なぜ答えられる?――  ヴァイオリンの絹のような柔らかで躍動感のある旋律に、雨音がこうべを垂れてダンスの申し込みをし、手を取り合って部屋の中で不規則に舞う。  いつまでたっても返事は返ってこない。さっきから様子もおかしい男。リンレイはそれ以上追求もせず、 「ヴァイオリンね……」  適当に曲名は削ぎ捨てて、楽器の名前だけをポツリとつぶやき、雑誌を持ち上げると、ミニスカートにも関わらず、彼女は大きく足を組み替えた。  パンツがのぞいたが、そんなことに興味もない。いやどうでもよかった。それよりも、レンは体の違和感に意識を取られていた。さっきから不規則に動いている左指先に。  音が鳴ると一緒に動く?――  楽器など弾けない。この手は悪魔に銃口を向け、トリガーを引くためにある。そうして、またイライラが襲ってくる。レンは几帳面に指先で一本一本綺麗に整えた髪を崩さないようにさっと立ち上がり、キッチンカウンターの中へと目指す。  食器棚から上辺が長い台形型のタンブラータイプのグラスをひとつ取り出した。冷凍庫を開け、街のバーでわざわざ作ってもらった丸氷をグラスの中へ沈める。  ガラスの惑星が結露で白く染まってゆく。飾りとしても楽しめる琥珀色をした瓶を棚から取り出し傾けると、流氷が一気に溶けるようにカチカチと音を立てた。  グラスを持って、ベッドサイドへ戻ってくると、雑誌に視線を落としたままのリンレイがまた話しかけてきた。 「モルト?」  ロックに琥珀色の液体で、この回答にたどり着く。単純過ぎて、レンは鼻で笑う。 「お前の頭は細胞分裂を一度もしていないんだな」  リンレイは顔をさっと上げて、悔しそうに唇を噛みしめた。 (かちんと来るわね)  ひねくれこの上ない言葉だったが、話しかけた意味がなくなる。彼女は平然とした振りで、別の質問を返してやった。 「それじゃあ、何よ?」 「バーボンだ」 「同じでしょ?」 「違う。バーボンはトウモロコシが原料――」 「お酒にも詳しいってことね」  こっちの罠に乗って、次々と答えてきた男に向かって、リンレイはチェックメイトを放った。レンは情報を引き出されていたと知って、天使のような綺麗な顔を怒りで歪める。 「っ……」 「音楽とお酒……?」  人差し指をトントンと唇に当てながら、どこかずれているクルミ色の瞳の中で、どんよりと曇る空の近くで、サボテンの緑がトゲトゲしく丸いボディーの羽伸ばししていた。  どれだけ時間が過ぎたのかはわからないが、お昼すぎだろう。ふたりとも朝食べただけで、お腹も空かないし、食事をとる気にもなれない。  リンレイはしばらく考えていたが、やがて大きなあくびをした。 「ふわぁ〜! おかしいわね。まだ昼間なのに眠くなるなんて」  雑誌をラックに適当に戻して、端に折り目がつく。ポニーテールしたままの頭を器用にソファーの肘掛けに乗せて、ブランケットもかけず横になる。 「あたし、少し眠るわね」 「お前……」  レンが言っているそばから気持ち良さそうな寝息が聞こえてきた。彼はふたりきりの部屋を眺めて、ぶつぶつと文句を言う。 「どう言うつもりだ? 男がいる前で平気で寝るとは……」  またイライラがぶり返す。 「ふんっ! 怒ったら負けだ。気にしないだ」  ベッドサイドへ振り返ろうとした時、視界の端にリンレイの顔が映ると、レンの中である言葉がはっきりと輪郭を持った。  お前を、お前のその寝顔を俺は守りたかった――  朝会ったばかりの女だ。名前も知らなかった女だ。それなのにこんなこと思うとは、 「……何から守りたかった?」  いっそう激しくなった雨音に、レンの奥行きがあり少し低めの声はにじむように溶けていった。噛みしめるようにバーボンを飲み、ヴァイオリンの音色に耳を傾ける。  ふと気がつくと、床を歩いた気配もないのに、リンレイの姿はどこにもなかった。声は上げないが、レンは少しだけ目を見開き、慎重に探す。  普通に話していたが、油断した。あの女は悪魔だったのか。背中にじっとりと変な汗がこびりつくような嫌な予感が迫る。  拳銃、フロンティア シックス シューターに用心深く手を伸ばす。情熱的で悲哀に満ちたヴァイオリンの音色と雨音の隙間に入り込む、どんな響きも見逃さないよう神経を研ぎます。  背中からふと視線を感じた。針のような銀の髪の真後ろに、無機質な黄緑色の瞳がふたつ――こっちを見ていた。  レンの鋭利なスミレ色の瞳にはまだ映っていない。だが、この押しつぶされそうな威圧感。気配を隠すどころか、恐怖で手足が震え出す。  この雰囲気はただ者ではない。よくて差し違い。下手に動けば無慈悲に殺されるだろう。  それでも、己の宿命に忠実に、レンは銃弾をはじき出すハンマーをカチカチと後ろに向かって下げ切る。トリガーに人差し指をかけ、干上がりそうなのどで生唾を飲み込み、振り向きざまに悪魔をぶち抜く。  こうべをめぐらし、銃を素早く構え、黄緑色の瞳を真正面で見つけて―― 「っ!」  ――魔法でも使ったかのように、レンはいきなり夜空の中に立っていた。絶え間ない雨音は嘘のように消え去り、湿った夜風が頬と髪を優しくなでる。 「っ……」  驚いてあたりを見渡すレンの頭上には、クレーターが見えるほど大きな紫の満月が()えていた。足元のはるか下には、都会の光る海に雨上がりの街が浮かんでいる。  どうやら、いつの間にかタワービルの屋上にいて、コンクリートの上にしっかり立っているようだった。遠くの空に、航空障害灯の光がルビーのような輝きを点滅させている。  寒い日の朝のように、いつもは聞こえない遠く離れた騒音が、水に包み込まれたようなゴーッという膨張した響きで耳に入り込んでくる。  あの印象的な黄緑色の瞳を探す。三百六十度ぐるっとかかとを軸にして、見渡す。近くに同じ高さの建物はなく、空と街並みの境界線が遠くで地平線の半円を描いていた。  宙に浮いて、闇に紛れているのかもしれない。フロンティアのトリガーに指をかけて―― 「っ!」  レンは手に違和感を抱いた。金属の冷たく重い感覚がなくなっていたのである。そうっと自分の手を持ち上げると、細い棒があった。 「?」  それは二本が並行して並んでいるもの。今度は左手に拳銃ではない重さが広がる。持ち上げると、女性らしいボディーをした弦の張られたものがあった。 「ヴァイオリン……?」  拳銃とすり替えられたのか。だが、相手の意図がわからない。  何のために?――  紫の幻想的な光の下で、レンは銀の長い前髪をさらさらと左右へ揺らす。悪魔の気配どころか、人の気配もない。いつの間にか着ていた黒のロングコートの裾が強風でハタハタとひるがえった。  楽器など弾けない――  そうしてまた、すぐに考えは変わる。  いや弾ける――  覚えている体が、弓の握り方もヴァイオリンをあごに挟む感覚も。レンは流れるような仕草を楽器を構えた。息を吸い吐き出すと同時に、弓はゆっくりと動いた。  聖堂の身廊を覆っていたシルクを静かに抜き取るような、ひとつの音が伸びやかに鳴り出す。紫の大きな月影を背負い、黒のゴスパンクのすらっとした体躯を持つ男の影が浮かび上がる。  バッハ G線上のアリア――  鋭利なスミレ色の瞳はまぶたの裏に隠され、ヴァイオリンの音色にレンは身を委ねる。まるで天使が魔法でもかけたように金に光る風が吹き抜けては、ロングコートを斜めに揺らしてゆく。  一人きりの夜空の演奏会。のように思えたが、もう一人耳を傾けている人物がいた。遠く離れたビルのてっぺんの細いポールの上に、絶妙なバランスを持って裸足で乗り、細身のズボンとはだけた白のシャツが風にはためく。  ボブ髪の縁で山吹色と紫の月明かりは彩られ、幻想的な色を夜空に引いていた。閉じられていたまぶたが開くと、宝石のように異様にキラキラと輝く黄緑色の瞳が現れる。  コレタカは軽くため息をついて、ボブ髪を片手で気だるくかき上げた。 「これからってとこね……」  金色の光る風がビュービューと咆哮し、彼のまわりにまとわりつくように吹いてくる。  それでも、黄緑色の瞳は風圧とまぶしさに閉じられることなく、見えないはずの距離にいるレンをじっと見つめていたが、ふと気づくとコレタカの姿は不思議なことにどこにもなかった――     *  闇色を向こうにする窓に映る鋭利なスミレ色の瞳は、街灯の明かりが近づくと消えて、通り過ぎるとまたガラスに現れてを繰り返している。  ガタンゴトンと列車が線路を走る音に身を任せながら、レンは自分の瞳を見返す。  二十二時過ぎの下りの最終列車。カスルディカ城に一番近い駅へ着くのは、夜中の二時過ぎ。翌朝になるまでは、戻る電車はない。  夜行列車で、途中停車する駅はたったひとつ。それ以外は二時間近く走り続けている。ある意味、牢獄のような列車。  同じ車両には誰も乗っていないようで、通路を人が通ったのを見ていない。誰もいないはずなのに、視線を感じる空間。おかしい。いやそもそも乗る時から変だった。違う。その前からだ。  ――屋上での、G線上のアリア。最後の伸びきった音の余韻から目覚めると、あの雨が窓ガラスを叩く部屋に戻っていたのだ。ヴァイオリンはどこにもなかった。手にはフロンティアが握られていた。  屋上に立つ前は昼過ぎだった。だが、ヴァイオリンを弾いた時間帯は月が昇っていた。部屋の時計は二十一時過ぎ。いなくなったはずのリンレイは戻ってきていて、彼女と一緒に駅へと向かった。  街明かりを雨で濡れた鈍色(にびいろ)に染める石畳の路上で、タクシーを拾った。ふたりで乗り込み、当然の問いかけが運転手からかけられる。 「お客さん、どちらまで?」  やけに滑舌がよくなく、独りよがりな声だった。リンレイは気にした様子もなく、レンを右にして、シートの上でロングブーツの足を組んだ。 「駅までお願い」 「はい」  交通量の少ない道路をタクシーは走り出した。街灯が時々車内を照らしては、消え去ってゆく。 「これからふたりでお出かけですか?」 「そうよ」  リンレイは車窓から細い路地を何本も見送る。その反対で、対向車のライトの川を射るように見ている、レンの鋭利なスミレ色の瞳。運転手からは別々の方向を眺めているふたりがバックミラー越しに映っていた。 「最終列車に乗って、お楽しみですか?」 「そうね。朝までふたりきりで何もないなんてあり得ないわね」 「お姉さんもお好きで……。うへへへへへ……」 「人生はそのためにあるんじゃないかしら?」  この女はすぐに話を猥褻に持っていく。節度というものがないのか。レンはイラっとして何か言ってやろうとした。 「っ……」  だが、リンレイとは反対にある右手首を彼女につかまれた。タクシーの後部座席という死角で、どさくさ紛れで自分に触れてくるとは、にらみつけてやろうと思った。  しかし、彼女の様子がおかしかった。自分をまったく見ていないのである。窓の外を眺めたままで、手だけを伸ばしてきているのだ。運転手と彼女の話はまだ続いている。 「いや〜、そういうお姉さんはなかなかいませんよ」 「あら? そう?」  ガラス越しにリンレイとレンの視線が合うと、彼女は振り向きもせず、目線を左から右――外から車内へと送ってきた。  レンは車窓から景色を眺めるふりをして、ブラウンの長い髪から、運転手の顔半分が映るバックミラーを通り越す。  リンレイに押し付けられたままの手のひらには、拳銃、フロンティア シックス シューターのグリップが、隠していたロングコートからはみ出していた。  走行音に紛れて、ハンマーをカチカチと起こしてゆく。ギリギリいっぱいまで引き終わると同時に、タクシーは赤信号で止まった。バックミラーに映らない後部座席の右側から、無感情に銃口をシートのヘッドまで上げて、トリガーを引く。シングルアクション。  ズバーンッッッ!  シートを貫通して、フロントガラスで銃弾が止まる。頭部炸裂の即死。血が出るわけでもなく、ただ真っ黒な(うじ)虫の山に変わった。  リンレイがサイドブレーキを引くと、タクシーを運転するものは誰もいなくなった。ドアを蹴り開けて、彼女は雨上がりの路上に足を下ろし、ため息をつく。 「さっそく悪魔。もう、駅までも徒歩なの?」  幸先思いやられる。大人の色恋沙汰を知っていれば、ふたりが男女の仲でないことぐらいわかるというものだ。子供ではないのだから。  彼女のあとに続いて降りたレンは、路上を通り過ぎてゆく他のタクシーに視線をやる。おそらく、どれを捕まえても同じだ。 「しょうがないわね。歩きましょ?」  リンレイは言い残して、上り坂をずんずん歩いてゆく。自分と違って、動きも決断力も早い。  針のような銀の髪を街灯の光に照らし出して、細い路地からレンが離れると、つり上がった赤い目が闇の中から何十個も現れた。     *    都会の路上なのに、二十一時代で、ほとんど通らない車。時折、思い出したように、レンとリンレイの脇をタクシーが通り過ぎてゆくが、彼らを追い越すとすぐに、すうっと煙に巻かれたように消え去る。  街灯の向こうの暗闇から何度も何度も同じ人が現れては、背後で幻影のように形を失くす、すれ違う歩行者のふりをする悪魔。  襲ってこないまでしても、目指すカスルディカ城の悪魔が力を持っているのは想像に容易い。下級の悪魔を使役するほどの存在。  ねじ曲がった異空間という言葉が似合う夜道をしばらく歩いてゆくと、霧に煙る駅の暖かな黄色の光が大きく広がった。  電車が到着するたび、構内から外へと人がどっと流れ出す。人々は無口で、バタバタと足音が鈍く足元で絶え間ない波を打つ。  ガラス張りのアーチの上には、星々の小さな光を(むしば)むように、紫のクレーターが見えるほど大きな月がかかる。  それをピントの合わない背景にして、リンレイのどこかずれているクルミ色の瞳は駅の時計のアラビア数字を指す二本の針を見上げた。 「二十二時ちょっと前……」  改札口の上にある、時刻パネルがパタパタと音を立てて、列車が発車したことを知らせる。白線を猛スピードで追ってゆくように、様々な文字と数字が流れていたが、ピタリと止まった。 「――マキル行き、二十二時十七分……これね」  横へと流れている人混みを、リンレイは気にした様子もなく、縫うように入ってゆく。 「あたし、切符買ってくるわ」  残像が残るような列を横切ってゆくリンレイの後ろ姿を見送る。百九十七センチの長身のレン。対する彼女は百六十ぐらいだろう。相手が小さかろうと、自分の背丈なら十分目で追えるはずだった。  だが、見逃したのだ。いやどれが彼女なのかわからなくなった。流れていた人の群れは、全員がリンレイの顔をして、ポニーテールしたブラウンの長い髪をしていた。 「…………」  三百六十度見渡したが、ミラーハウスに迷い込んだように同じ。全てに銃弾を打ち込むべきなのか。濁流のようにホームからあふれ出てくるリンレイの群れ。彼女が脳裏にこびりつくようで、めまいが襲い始める。  惑わされてはいけない。ここは普通の駅で、歩いている人の姿形は、悪魔が見せた幻で、現実として存在は決してしていない。シャットダウンするために、目を閉じて……。 「――はい」  暗闇という水面(みなも)に一石投じたような女の声が響き渡った。不浄が弾かれるように消え去ってゆくのが、まぶたの裏に見えた気がして、 「…………」  目を開けると、切符が一枚差し出されていた。 「ん」  お遣いご苦労と言わんばかりに、態度デカデカでレンは受け取り、先に歩いてゆく。リンレイは両方の手のひらを天井へ向け、降参のポーズを取った。 「目を閉じるなんて、何か見たくないものでもあったのかしら……?」  歩幅の大きな違いで、リンレイは急いで改札を抜けて、プラットホームへとあとを追いかける。  朝のそれぞれの家から出てきた孤独なラッシュアワーとは違って、友達や同僚などと一緒のはずの帰宅ラッシュ。  それなのに、話し声がまったく聞こえない。それどころか、構内放送も発車のベルも鳴り響かない、最終電車間近の駅だった。  始発駅のホーム。線路は行き止まり。夜の線路へと飛び出したら、闇と混じり込んでしまいそうな濃い藍色の列車。大きな革のトランクが駅員によって、中へ詰め込まれている。  プシュプシュっと蒸気が抜けるような音が車体の下から聞こえてくる。長い列車で先頭ははるか遠くで小さく尖っているように見えた。  アンティークな造りの入り口から中へ少しだけ入ると、車掌が立っていて、切符をそれぞれ渡す。  銀の長い前髪を揺らして、鋭利なスミレ色の瞳が客室へ振り返ろうとした刹那、霧の中から不意に現れる車のライトのように、赤い目がふたつ浮かび上がった。  黒い細身のズボンとロングコートの間に、滑り込むように手が入り、フロンティアを取り出し、迷わず車掌の額に銃口を向けて、ダブルアクションで、重いトリガーを引く。  ズバーンッッッ! 「ぎゃあぁぁぁっっ!!!!」  断末魔は響くのに、頭部は破裂せず、血も飛び散らず、黒い蛆虫の塊が形をたもてなくなり、くねり回る体をボトボトと落として、床を染めてゆく。 「無事に着けるのかしら?」  リンレイは切符を指先に挟んだまま、ロングブーツの脇で蛆虫を払いのけて、あきれたため息をついた。  ボックス席の(はす)向かいに、レンとリンレイは座る。あんなにトラブル続きだったが、列車は不自然なほど、時刻通り駅員の笛がピーっと発車の合図を出して、闇の中へ向かって走り出した。  乗り換えのある大きな駅近くのポイント通過の横揺れが何度か続いていたが、それもやがてしなくなり、ビルがいつしか民家の密集へと変わり、田園地帯へと列車は躍り出た。  暗闇の中に列車の黄色く四角い光が郊外へと滑ってゆく。ガタンゴトンと音を立てながら木でできた電信柱が何本も通り過ぎても、レンとリンレイは話すこともなく、ひとつ目の停車駅を目指して、加速する列車に揺られる。  肘掛にもたれかかっていたリンレイがうつらうつらとし始めて、肘がガクッと落ちて一気に目覚めるかと思いきや、眉間を指で押さえて、あくびをもらす。 「また眠くなっちゃったわね。昼間寝たはずなのに、おかしいわね」  ガタガタと揺れる車内でも、リンレイはぐらつくこともなく、席から立ち上がった。 「顔洗ってこようかしら? ちょっと席外すわね」 「ん」  レンが気のない返事を返すと、リンレイのロングブーツは空席ばかりの通路を後ろへ向かって歩き出した。かかとを鳴らしながら。  一人きりになった座席で、窓に映る自分を見ている。薄闇ばかりで、鏡のような車窓。鋭利なスミレ色の瞳と銀の長い前髪。見慣れた顔を眺めていたが、ふと異変を感じた。  腕時計を確認する。もうすでに日付が変わっている。  零時十四分――  朝起きた時刻はわからない。だが、自分はあれからまったく眠っていない。それなのに少しも眠いと思わない。おかしい……。  ちょうどその時だった、列車が途中駅に停車するため減速し始めたのは。車窓から前をのぞきこむと、ホームの光がポツリと浮いていた。  闇夜に慣れた目が少しだけくらみ、鋭利なスミレ色の瞳は一度まぶたの裏に隠された。ゆっくりと開けると、にらみつけるような自分の目がガラス窓に映る。  もう二時間以上、空気を入れ替えることなく走って来た列車。レンは窓のシルバーのレバーをつまみ上げる。雨の匂いはするが、星空がちらほらと広がっていて、降る気配はない。  ゴスパンクロングブーツのバックルをカチャッと鳴らして、足を華麗に組み替える。停車駅、人の動きはない。  席から立つこともせず、通路をのぞき見ることもなく、鏡のような車窓を視線だけで追ってゆく。進行方向から後ろへとひとつも逃さず、そうして最後で、同じ車両は空席。という事実が浮き彫りとなった。  十数分ほど停車している間、誰も乗り込んでくる者はいなかった。二時間ぶりの駅員の鳴らす笛の音で、再び列車は動き出す。  髪が乱れる。許せない。窓は押し下ろして、走行音は濁ったものになった。腰のあたりで腕を組み、トントンと人差し指でリズムを刻む。バッハの音色が脳裏に光る五線紙として流れてゆく。  左の指はヴァイオリンの弦を押さえ始めるが、それはとても自然なことで、しばらく空想世界で、ヨハネ受難曲に浸っていた。  だがふと、さっきからずっと斜め前が空席なことを思い出した。知っているような知らないリンレイ。彼女が席を立ったのは、どんなに少なく見積もっても、深夜の零時前後だ。  コートとシャツの袖口をめくって、腕時計の文字盤を見つける。今は、  一時十五分――  彼女に何かあったのか。恐れをなして、さっきの駅で降りたのか。それとも、あの女自体が、悪魔だったのだろうか。記憶の欠片がバラバラに散らばったまま、合わせ鏡のように幾重にも事実が並んで、どれを信じていいのか、疑えばいいのかわからなくなる。  その時だった。割れたガラスの破片が突き刺さるような悲鳴が響き渡ったのは。 「きゃあああっ!」  ぼんやりしていた瞳の焦点が向かい席の背もたれで、正常に戻ると、靴音が走り寄ってきた。振り向こうとすると、知らない女が一人足をもつれさせて、床の上に横滑りで倒れこんだ。 「助けてください!」  寒さに凍えるように震え切っている声は、この世のものではない別のものに出くわしたような恐怖だった。  女が一人どうなろうと自分には関係ない。それよりも、怯えている原因のほうが重要だ。フロンティア シックス シューターのグリップに手をかけ、走行音と揺れの中でハンマーをゆっくりと引いてゆく。  女が涙をこぼし上目遣いで、レンのゴスパンクロングブーツにしがみつき、必死に訴えかける。 「私、悪魔に取り()かれてるんです!」  悪魔の殺し屋の手足の力は一気に抜け、銃はロングコートの裾から見えたままになった。彼の脳裏で同じ言葉が残響を呼びながらぐるぐると回る。  悪魔に取り憑かれている。悪魔に取り憑かれている。悪魔に取り憑かれている悪魔に取り憑かれている。悪魔に取り憑かれている悪魔に取り憑かれている悪魔に取り憑かれている。悪魔に取り憑かれている悪魔に取り憑かれている悪魔に取り憑かれている悪魔に取り憑かれている……。  悲痛という大波が無音のまま一瞬にして近づき、飲み込まれてしまうような絶望という海底へと独り沈んでゆく。レンは急に息苦しさを覚え、思わず目を閉じる。  その時だった、あたりをつんざくような銃声が響き渡ったのは。  ズバーンッッッ! 「あなたの好みの女なの? そんな小物も見抜けないなんて……」  呪縛の鎖が砕かれたように、体の硬直は解かれ、レンは目をそっと開ける。足元の床には黒い蛆虫がのたうちまわる山ができていた。  いなかったはずのリンレイが立っていて、拳銃、ピースメーカーの銃口を今、か弱い女のふりをした悪魔からはずしたところだった。  助けられたで、合っているのだろうか――  何かがずれたまま、夜行列車は終点の駅へと向かって走ってゆく。ヘッセン村にあるカスルディカ城の悪魔を退治するために――――
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