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『じゃあ、私の予定を変えろって言うの?』
彼女の事情は理解している。配偶者の僕が協力すべきだというのも、十分分かっている。けれども。
『いや、そうじゃなくて。物理的に言っても、義姉サンの方が近いだろ。僕は、新幹線で、とんぼ返りしなくちゃならないんだぞ』
彼女のお父さん――義父は、月に一度、隣県から川を越えて、うちの区内の総合病院まで検査に来る。実家から電車に乗せて、最寄り駅の改札まで送り届けるのは義妹の役目で、改札を出てから病院まで連れて行くのは、奥サンと義姉サンが月替わりで交互に担っている。
検査は1日掛かりだが、病院内は担当の看護師さんが付いてくれる。彼女ら三姉妹は、往路と復路を分担している。ところが今回のヒヨコちゃんの一件で、奥サンの迎えが間に合わないのだ。
それぞれが仕事と家庭を持っている。だから余程のことがない限り、当番の変更は頼み難いのだそうだ。
『……私、何でもかんでも頼んでいるつもりはないわ。あなたに無理言うことなんて、そんなに多くはない筈だけど』
確かに、それも分かっている。協力したいのも山々だが、部長との接待付きの出張は、1ヶ月も前から決まっていた。先方の都合もあるのに、今更、家庭の事情で……は、通用しまい。
『もう……いいわよ。自分で何とかするから』
非難めいた眼差しのまま、彼女は瞳を伏せた。半分以上中身の入った黄色いマグカップだけ持って、立ち上がった。
『明日、早いから』
溜め息混じりの呟きと、空のマグカップをシンクに残して、彼女の後ろ姿が2階へ消えた。
苦みのないコーヒーが、渋くて不味い。飲みきれずにシンクに流し、マグカップを2つ洗って、洗面所に足を運ぶ。
いつもより念入りな歯磨きで、後悔の後味を消してから、寝室に入った。寝息のない背中に背中を向けて、沈黙に身を任せた。
今朝、目覚めると、既に彼女の姿は家の中から消えていた。
それでも、ダイニングテーブルの上には朝食と、弁当の包みが乗っていた。まるでいつものように。
なんだ、言葉や態度程、怒ってなかったんだな。
単純な僕は、至極簡単に考え、日常に倣って満員電車に駆け込んだ。
しかし、事態は、そうあっさりしたものではなかったみたいだ。
真っ赤なハートを閉じ込めた、甘々なゼリー。
ラブラブな新婚時代じゃあるまいし、むしろ反動だとすると……怒りは根深そうだ。
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