第三話:海子

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第三話:海子

 猿山海子は朝起きると、草間夏男のために朝ご飯を作る。今日の献立は、ご飯と味噌汁と安い焼魚だ。海子は味噌汁の味見をし、今日も上手くいったと微笑んだ。そして料理が出来ると大の字で寝ている夏男を起こしに行く。夏男は「このたわけが!人が大の字で気持ち良く寝てるのに貴様って奴は!」と駄々っ子のように喚くが、食い物の臭いを嗅いだ途端涎を垂れ流しで興奮した。海子はそんな子供のような夏男が愛しくてしょうがない。デブチンでインクまみれの夏男だが、海子は誰よりも愛していた。  一日の始まりはいつもこんな感じだった。安アパートでの慎ましい暮らし。二人は海子が実家を勘当されてからずっとこのアパートで暮らしていた。  夏男は飯をむさぼるように食べる。勿論箸なんか使わない。床に食い物をことごとく撒き散らした。海子はそんな夏男を困ったもんだと思うが、しかしまたそんな子供みたいな所がたまらなく愛しいと思う。  食事中に夏男が突然苦しみだしたのだった。また魚を丸呑みしようとしたのだ。「ウォー!魚が喉に入ってしまったぞコラーッ!」夏男はテーブルをひっくり返すと、のたうち回って泣き叫んだ。海子はまたやったと思い、暴れる夏男を押さえると「あ~ん、お口を開いてね~夏男さ~ん」と言いながら涙まで流している夏男の口から魚を抜き取ったのであった。 「ダメでしょ!夏男さん!いつも言ってるじゃない!お魚は丸呑みしちゃダメだって!」  いつもは威張りくさっている夏男もこういうときだけは殊勝だ。涙を溜めながら下唇を突き出して大人しく海子のお説教を聞いているのだ。  海子がスーツに着替えて会社に出勤しようとすると、夏男は体をポリポリ掻きながらこう言ったのだった。 「色インクもうなくなってるわ!」  彼女は呆然とした。そして「えっ!インクもう全部使っちゃったの!この間買って来たばかりじゃない!」と言ったが、夏男は茶碗を投げつけると、海子を怒りつけたのだった。 「このたわけが!貴様のような凡人と俺さまのような天才を一緒にするな!俺は歴史に残る偉大な芸術作品を書いているんだ!そんな偉大な俺さまにインク一つでガタガタ文句抜かしおって!」 「だけど私達にはお金がないのよ!生活費で精一杯。色インクなんて高い物しょっちゅう買えないわ!」   海子は涙ながらに抗議した。だが心の中では天才芸術家の夏男にインクを満足に買ってやれない事を情けなく思っていたのだ。 「もういいわ!貴様のせいで台無しだ!今日は何も描かんぞ!」  とついにふてくされた夏男はその場でいきなり大の字で寝てしまった。海子は夏男にじゃあ仕事に行くねと言いながら玄関に向かったが、返事の代わりに「赤インク、青インク」と夏雄の呟く声が聞こえるばかりであった。
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