第五話:臭い

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第五話:臭い

 荷物が次から次へとやって来た。猿山海子は早速伝票を確認すると判を押した。今時計は午後七時を指した所だった。  海子は今二つ目の勤務に就いている。昼間は事務仕事で、今はペンキ倉庫の品物整理のバイトだ。彼女は毎日、体力の限界まで働く。すべて夏男に芸術作品を書いてもらいたいためだ。そのためには先ず生活費が必要なのだ。 「猿山さん!よそ見しない!」先輩のパートが彼女に注意した。海子はハッとしてまた仕事に取り掛かかる。しばらくして休憩時間を知らすベルが鳴った。  休憩室に入るなり膿子は机にうつ伏せになって休んだ。もうクタクタだった。あと一時間で今日の仕事は全部終わりだ。やっと夏男の所に帰れると思うと海子は嬉しくなった。  猿山海子が草間夏男と同棲することで失ったものは余りにも大きい。二人は大学四年生の時に、ある事件がキッカケで同棲を始めたが、そのお陰で海子は内定先の企業から、突然内定取り消しをされてしまった。  彼女はその後手当たり次第企業を面接に回ったが、どこも採用してくれなかった。海子は感づいていた。日本有数の財閥である猿山家の当主である父親がその力を使ってあらゆる企業に手を回している事を。しかし彼女はそんな妨害には屈しなかった。夏男をそれ程にも愛していたのだ。それからしばらくして海子は小さな印刷工場の事務仕事を見つけた。しかし、工場から出る給料では夏男は養えないのでもう一つ、この仕事を見つけて今に至っている。  海子がガラス越しに夜の景色を見て物思いに耽っていると、さっきのパートの女がやって来て、海子の隣りに座った。女は海子をジッと見ると「あなた、今日は食べ物のかすは着いてないみたいね」と喋り出してきた。海子はまた始まったと思う。この女はいつもこうやって彼女を苛めるのだ。 「あなたの同棲相手はいつも裸でろくにお風呂入ってないらしいじゃないの。うわ~嫌だ!汚いわ~」  そして女は駄目押しに臭いまで嗅ぎ出した。海子は何も言えない。この女はパートの中で一番力があり逆らうと何をされるかわからないからである。  突然女が「臭い!臭い!」と喚き出した。海子は思わず自分の臭いを嗅いだ。まさか……そんな! 「あなた何かインク臭いわよ!」と女は部屋中に響く声で喚いた。海子は慌てて臭いを嗅いだ。よかった排泄物の臭いじゃなくて。だけど……。女は勿論大袈裟に言ったのである。これが排泄物の臭いだったらとんだ大騒ぎだっただろう。確かに微かなインクの臭いがした。海子は肌に残るインクの匂い嗅いで、家にいる夏男を思い浮かべてもう少し頑張れるような気がした。
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