第六話:諍い

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第六話:諍い

 猿山海子は嬉しかった。多分インクの臭いは草間夏男と暮らしているから自然に付いたのだろう。あの人いつもインクを使うから。  海子はあらためて自分の臭いを嗅いだ。ふんわり微かにインクの臭いがする。彼女は夏男のデブチンで苦悩しながら芸術を創造しようともがき苦しむ姿を思い浮かべた。海子は自分が今彼にしてやれるのは、インク代を稼ぐことだ。そう自分に言い聞かせてまた勤務に戻った。  アパートの部屋のドアを開けるなり、膿子は強烈な異臭を嗅いだ。彼女はまさか、と思い、慌てて電気を点けると、床一面におびただしい量のインクが散乱していた。ふと足元を見ると、床一面黒くなってしまっている。ああ!あの人またやったんだわ!あれほど気をつけてっていったのに!  海子は素早くドアの鍵を閉めると、靴下を脱ぎ、スカートをたくしあげながら夏男の部屋に飛んでいった。そして、インクですっかり汚れた部屋に大の字で寝ている夏男に膿子は叫んだ。 「あなたまたやったのね!何回言ったら分かるのよ!部屋を汚してるのが皆に分かったら私達追い出されるのよ!」 「うるさいわ!貴様がインク買わないからこんなことになったんだ!ああ俺にはわかってるんだ!貴様がヘソクリしてることぐらい!」  海子は頭が真っ白になった。夏男が自分を疑っているとは思わなかったのだ。 「な、何故私を疑うの? 私はあなたのために毎日働いているじゃない」 「やかましいわ!」夏男は海子を遮って怒鳴りつけた。「貴様!どこに金隠しやがった!貴様のタンスもクローゼットもすべて俺のインクまみれの手で探したわ!いくら色インクが高いからって、誤魔化しは利かんぞ!さあインク代出しやがれ!」 「じゃあ!私が隠してるっていうの!一体あなたは私を何だと思っているのよ!」そう言うと海子はインクだらけの床に俯せになって泣き崩れてしまった。 「貴様のせいだ!貴様が俺の芸術を理解しようとしないからだ!貴様も他の奴等と同じだ!俺をインクまみれのデブチンだってバカにしてるんだ!ああだから…だから色インク一つ俺にくれないんだ!みんな俺を愛してくれない。ああヤッパリ俺さまはずっと独りぼっちなんだ!」  彼はそう叫ぶと魂の底から絞り出すような声で号泣したのだった。  夏男の叫びは海子の胸に酷く突き刺さった。彼が発した絶望と孤独の深さが分かり過ぎるほど分かったからだ。彼女もまたそんな夏男に何も出来ない自分の無力さに泣いた。  黒インクで覆い尽くされた床から湯気が立ち上ぼる。膿子は泣きじゃくる夏男を優しく抱き締めた。自分に出来るのはこうすることだけ……こうして彼を慰めることぐらい。いつも抱いてあげる。死ぬまでずっと……。  夏男は海子の胸に抱かれて幸せだった。そして子供のように甘えていた。彼は海子の体からほんのり香る高級品のインクの匂いを嗅ぐと安心したかのように目を閉じた。
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