第七話:芸術

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第七話:芸術

 夏男は海子なしでは生きられなかった。自分に初めて手を差し延べてくれたのが彼女だった。海子は夏男に御飯の食べ方や、風呂の入り方、そしてトイレの仕方まで何でも教えてくれた。生まれてからずっと独りで生きて来た彼にとって、海子は母親代わりだったのだ。だから海子に甘えたかった。海子、と彼は思う……早くインク寄越せコラ!インクなかったら俺さまは芸術作品描けないんだぞ!インク!インク!インク!  海子は夏男の寝言を聞くのが何よりも辛かった。インク!と呟かれる度に胸が苦しくなる。ああ!この人に早くインクをあげなきゃ!早く芸術作品を描いて貰うために!そして彼女は壁に飾ってある夏男の処女作『となりのみつこちゃん』を眺めたのであった。この絵を夏男に初めて見せられた瞬間を海子は未だに覚えている。  海子は大学で美術史を専攻していたが、夏男の絵は彼女の芸術観を根底から破壊してしまったのだ。彼女は衝撃のあまり夏男の絵をテーマに卒論を書き、それを指導教官にみせたら何だこれは!うちの大学の生徒の落書を卒論に描いてどうするんだ!君は優秀なんだからもっとまともなテーマを選びなさい!と呆れられ論文を書き直しするように言われたのだった。彼女は悲しんだが、これは夏男がまだ無名だからだと考え、彼が有名になればデブチンでインクまみれの彼への偏見もなくなるはずと思い、当時まだ家から月500万の仕送りがあったので貯金を使って銀座のギャラリーを借り夏男の展覧会を開いたのである。  早くインクを彼にあげたい。海子は大の字でインクまみれの床に寝ている夏男の寝顔にキスをすると、独り、床のインクの掃除を始めるのだった。  出勤途中に海子は、インクの染みが服についていないかを何度も確かめた。臭いは心配いらなかった。朝、シャワーで丁寧に洗ったからだ。結局、掃除に一晩中かかっちゃった。でもこれもすべて夏男さんのためだわ。だけど…と海子は自分の体から微かに臭う、インクの臭いに少し戸惑っていた。これもいつも夏男の創作を手伝っているから付いてしまったのだ。と海子は嬉しくもあり、また多少気恥ずかしくもあった。  夏男は朝起きるとインクだらけだった部屋がすっかり綺麗になっているのにビックリした。彼はデブチンの体を転がせてウペペ!と吠える。しかしインクがない。夏男の迸る想像力の土台となるインクがないのだ。インクがないと俺の絵は腐った蜜柑みたいに萎れちまう!……クソが!また海子に対する疑いが頭をもたげてきた。昨日の晩、海子の膝枕で寝た時に微かにインクの匂いがした!アイツまさかインクを買って、プレミアがついたら売って金を儲けて俺さまからトンずらするつもりだな!あのガキまた俺さまを騙しやがって!全く下劣極まりない奴だ!俺さまの芸術を何一つ理解しないんだからな!俺さまにも考えがあるぞ!  だが海子の顔が思い浮かぶと、夏男は自分の考えの余りの醜悪さに涙が出てくるのだった。ああ海子!俺さまの芸術にはお前が必要なんだ!だから……。
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