第一話:夜の帳

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第一話:夜の帳

 この物語はネットも携帯もなく、そして色インクがやたら高かった時代の話である。  蒸し暑い夏の夜、今日も夜の帳から夜鶯の鳴き声が響き渡る。  暗闇の中、デブチン男は明かりを頼りに寝そべる女を不器用に愛撫する。寝そべる女はそんな男の不器用な愛撫を白子のように白い肌をくねらせながら受け入れていく。  男の名は草間夏男という。女は猿山海子という。 「海子~!どうや!ワシはどうや!」夏男は思わず力を込めて愛撫してしまった。海子は夏男の乱暴な愛撫が痛くてしょうがないが、しかしそれよりも夏男が不器用なほど自分を愛していることが嬉しい。頭をのけ反らせて夏男に身を任せてしまう。 「ああっ!夏男さん!好きよッ!」  この二人は三年前から同棲している。共に二十五才だ。初めて出会ったのは、二人が通っていた大学の正門前である。海子は入学式の登校中に正門前で布団を敷いて寝そべっている夏男を見たのが最初だった。  海子は隣りで寝ている夏男の頭を撫でていた。夏男はデブチンの体を大の字にして寝ている。膿子はそんな夏男を愛しく思う。そう大学の入学式の時、夏男に正門で最初に出会った時も彼は寝ていた。しかもインク漬けで、辺り一面に強烈な臭いを撒き散らしていたのだ。あの時まさか二人がこんな関係になるなんて……と海子は思った。  彼女が夏男から受けた衝撃は、自分の人生を変えてしまう程のものであった。海子はアッパーミドルの令嬢であり、彼女の交際範囲は上流階級の人間に限られていたのだ。そんな彼女がインクまみれで布団に籠もるデブチンを見たのだ。海子はむせ返るインク臭に耐え切れず、ついにその場にへたりこんでしまった。ハンカチを口に当て、香水を辺りにばら蒔いても臭いは増していく。  彼女は助けを求めようと顔を上げると、なんと目の前ににあのデブチンが立っているではないか。海子は全身が金縛りにあったようになって喋る事すら出来ない。お互い沈黙したまま時間が流れた。やがて男が口を開いた。 「このたわけ者が!人の事をジロジロ見おって!この不良娘が!そんなに俺さまが欲しいのか!全く最近の若い娘ははぢを知らないわ!」  海子は生まれてからこのかた、こんな下劣で汚らわしい言葉を聞いたことはなかった。彼女はこの時初めて自分と違う人間がいることを知ったのである。 「このたわけ者が!貴様もこの大学に入学するんだろうが!さっさとついて来んか!入学式サボろうとしおって!」
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