第二話:夏男

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

第二話:夏男

 海子は、あの時の事を今でもハッキリ覚えている。夏男が海子を叱るなり、インクまみれの手で、海子の腕を掴みながら無理矢理大学の構内に入っていった事を。そしてデブチンでインクまみれの夏男を警備員が捕まえようとした時夏男が、 「このアホどもが!分からんのか!俺さまがトップでこの大学に合格したのが分からんのか!いつも俺さまが合格証体につけて正門の前で寝ていただろうが!このカス!人間を見た目で判断しやがって!デブチンがそんなに悪いのか!インクだらけだからって何なんだ!俺様のような家なしっ子は大学に入れないってか!」  と泣きながら叫んでいた事を。  今思えば、海子はあの時から夏男に恋をしていたのかもしれない。だがその時はただ不潔極まりないデブチンの夏男を吐気がする程嫌っていた。しかしあの時、夏男と、彼の発した悲痛な叫びを海子は忘れる事が出来なかった。  入学式の翌日から夏男は正門前に住み着き始めた。学校から出るとここで好き勝手にインクでお絵かきをしながら寝る。朝になると夏男はノートや筆記用具を揃え、そして彼を避けて歩く学生めがけて唾を吐きちらしていた。  海子は、あの日以来夏男の存在を無視しようとしていた。彼は正門前に住み着いているが、臭い消しで匂は落とせるし、皆がやっているように駆け足で門に入れば彼にインクを投げ付けられる心配はないだろう。だけど彼女は夏男を無視出来なかった。目を閉じるたびに夏男の悲痛な叫び声が聞こえてくるのだ。忘れようとすればする程夏男の存在が大きくなってしまうのだった。  海子は自覚したのだった。自分が夏男に恋している事に、あのデブチンでインクまみれの男を本気で恋した事に気付いてしまったのである。  それから二人の関係は急速に親密になっていった。デブチンの夏男に正門の前で告白した青葉の頃。デブチンの夏男にまともな食べ物を与えた五月の夕暮。デブチンの夏男を友達に馬鹿され怒った十八の夜。デブチンの夏男が警察に捕まって泣き濡れたクリスマスイブ。デブチンの夏男に体を洗う事を教えた十九の夏。デブチンの夏男の過去を知り二人で泣いた夜。そしてデブチンの夏男に女のすべてを教えた二十の記念日。最後にデブチンの夏男が天才芸術家だと知り二人が出会った奇跡に感謝した二十二の朝。  海子は今、夏男と同棲して良かったと思う。この人といれば何もいらない。そして彼女はゆっくり目を閉じた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!