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2.吸血鬼の少年-1
ねえ、マリエ。
君は金木犀が好きだったよね。
僕も好きだったよ。
金木犀の香りがする夜に、マリエと一緒に出かけるのが好きだったんだ。
でも、あの夜。
君はいなくなってしまった。
あれ以来、僕は金木犀の季節になると哀しくなる。
マリエの好きな花なのに、僕は好きだと思えなくなってしまった。
マリエと一緒に歩いた夜は大切な思い出なのに、思い出そうとすると、なぜかつらくなるんだ。
マリエ。
今、どこにいるの?
また、会いたいよ……。
*
真一郎が目を覚ますと、そこはベッドの上だった。
真っ白な天井。真っ白な壁。ただの白ではなく、素材の風合いを生かした上品な白になっている。
毛布やシーツ、枕なども真っ白だ。
窓には白いレースカーテンがかけられ、隙間から柔らかな日差しを感じる。
部屋を見回し、真一郎は混乱した。
ここはいつもの部屋ではない。千秋の部屋は、天井に木目が見える。それに、ベッド周りは暖色系で統一されているはずだ。ここはどこだ。
そこまで考えて、自分が馬鹿なことを考えていることに気づいた。
昨日の夜、自分は千秋の家から追い出され、公園のベンチで寝たのだ。あの部屋に戻っているわけがない。
しかし、だとしたら、ここはどこだ。
真一郎は頭を抱えそうになった。
昨日から、わけのわからないことが多すぎる。
千秋に家を追い出され、公園で寝ることになり、寝ているうちに殺人鬼に襲われ、どうやら命は助かったようだが、今度は知らない場所で目覚めた。
次は誘拐だろうか。
しかし、わざわざ真一郎を誘拐する理由がわからない。彼には身代金など払う金はない。身寄りは父だけだが、父も大した金は持っていないだろう。そして、恋人である千秋とは縁を切られた。
(一体なんなんだ……俺にどうしろっていうんだよ……)
真一郎はうなだれて途方に暮れた。
無意識に首筋に手を触れたが、昨日刺されたはずの場所に傷は残っていない。ますます意味がわからない。
しかし、その思考はあっさり中断された。腹が鳴ったせいだ。
(そういえば、昨日はろくに食べてなかったな……)
食べたのは、おにぎり半分と、もらった飴玉一個だけ。真一郎にはまったく足りない量だ。
とにかく、この部屋を出よう。まだ誘拐と決まったわけではないのだ。
真一郎は腹をくくって、真っ白なドアの金の取っ手に手をかけた。
部屋を出ると、長く伸びた廊下が続いている。
ここも白い壁と白い天井だ。床には、青と白の織り模様のカーペットが敷いてあった。渦巻きと草花が合わさったような模様である。
廊下の両側にはたくさんのドアがある。試しにひとつ、ドアノブを回してみたが、鍵がかかっていた。
それにしても、妙に静かだ。こんなに広いのに、人の気配がまったくない。
よく見れば、壁や床の端にはホコリがついていて、長い間誰にも使われていなかったのかもしれない。
長い廊下の端まで来ると、やっと階段を見つけた。
少しだけ金木犀の香りを感じる。踊り場の窓が開け放されて、風が入ってきているのだ。
階段を降りようとして、真一郎は足を止めた。下の階から、誰かの足音が聞こえる。
(まさか、昨日の殺人鬼じゃないよな……?)
昨夜のことを思いだし、真一郎の背筋が震えた。見つかったら、今度こそ殺されるかもしれない。
「ジェム! ねえ、どこにいるの?」
下の階から聞こえてきたのは、女の子の声だった。
真一郎はほっとして、階段を降りる。そこには、中学生くらいと思われる少女がいた。
「あなた……誰?」
少女は真一郎を見つけ、不思議そうな目を向けた。
少女の真っ赤なワンピースに、一瞬、真一郎はぞくりとした。まるで血のようだと思ったのだ。しかしよく見れば、快活そうなこの少女に、赤い色はよく似合っている。腰まである長い髪をまとめるリボンも赤い色だった。
「俺は、遠見真一郎っていうんだけど、目が覚めたら、なぜかこの建物にいたんだ。ここはどこなんだ?」
「はあ……?」
少女は意味が分からないという顔をしている。
「えーっと、君はここに住んでいるの?」
「ううん、違うわ」
あっさり否定されてしまい、真一郎は困った。話がややこしくなりそうだ。
「そんなことより、ジェムがどこにいるか知らない?」
少女はそう聞いてきたが、真一郎は『ジェム』という名前に聞き覚えがなかった。
「知らないな……」
「ああ、そう。じゃあね」
「え、ちょっと待った!」
少女があっさり立ち去ろうとするので、真一郎はあわてて彼女を呼び止めた。
「それじゃ、俺も一緒に探すよ」
「そう? じゃあ、お願いするわ」
少女は真一郎に詳しい事情を聞くこともなく、あっさりとうなずいた。
*
彼女と並んで歩き、真一郎はやっと建物の外に出ることができた。
どうやら、すでに夕方のようである。オレンジ味を帯びた日差しがまぶしい。
「広いな……」
外の景色を見て、彼は思わず呟いた。
彼にとっては、まるで映画の中のような景色だった。
先ほどまでいた建物は、古めかしい石造りで、歴史を感じさせる。他にも、いくつか石造りの建物が見えた。
周りは広大な庭で、花や木々の間を縫うように、石畳の小道が続いている。ところどころに石のアーチやオブジェも置かれていた。
「一体、どこの金持ちの家なんだ……?」
真一郎があたりを見回していると、少女がくすりと笑った。
「そんなにここが珍しい?」
「ああ、まあ……」
話している間にも、少女は庭木の間やオブジェの陰を見て回っていた。しかし、探している人物は見つからないようだ。
「いないわね……どこに行ったのかしら」
真一郎も少女を真似て探したが、どこにも人影はなかった。
(こんなに広い屋敷なら、使用人がたくさんいそうなんだが……どうして誰もいないんだ?)
疑問に思いながらも、真一郎は少女のあとをついて歩いた。
とにかく広大な庭だ。いったいどれくらい歩けばいいのだろう。真一郎がそんなことを考えていると、少女は急に足を止めた。
「図書館かあ……もしかして、ここにいるのかな」
そこは他の建物よりもやや小さな建物だった。しかし、レンガ作りの壁や鉄製の扉など、その重厚感は群を抜いている。
「ジェムー! いるのー?」
少女は、重そうな扉を軽々と開けて、中に入った。真一郎もあわてて続いたが、あまりにも重い扉に一瞬恐ろしさを感じてしまう。こんな扉に挟まれたら危険だ。
中は、大量の本が置かれた図書館だった。床から天井近くまである本棚に、本がぎっしりと詰め込まれている。どれも古い本ばかりのようだ。
「ジェム!」
少女が奥へと走っていく。
真一郎もついていくと、窓際の大きな机の前にひとりの少年が座っていた。
「えっ……」
思わず真一郎は声を漏らした。
その少年の姿に、見覚えがある。
(昨日、コンビニ前にいた子だ……)
真一郎がおにぎりを半分分けて食べさせた、あの少年だった。
しかし、物憂げなその表情は、昨日とまったく雰囲気が違う。
「ジェム、ずっと探してたのよ。いつものところにいないなら、書き置きくらいしてくれたっていいじゃない」
「ごめん。ちょっと、ひとりになりたくて……」
少年は少女と言葉を交わしながらも、心ここにあらずといった様子だ。少女のほうを見ず、机の上に置かれたペンやノートをぼんやりと眺めている。
「どうしたの? 何か悩み事?」
「ううん、何でもない……」
「困ったことがあったら、私に何でも話してよ」
「別に……大丈夫だよ……」
少女が繰り返し尋ねても、少年は事情を話そうとしない。
「あ、あのさ……」
気まずさを感じつつ、真一郎は口を開いた。少年たちに聞きたいことが山ほどあるのだ。
少年がやっと顔を上げる。真一郎の存在に気づいて、少し驚いたようだった。
「あ、そうだったわ。ジェム、この人は誰? 私がジェムを探していたら、この人がいきなり出てきたのよ」
少女は、真一郎と少年を交互に見た。
「何から話せばいいかな……話せば長くなるんだけど」
少年は何やら考え込んでいる。しばらくして、少女に目を向けた。
「スカーレット、彼は僕が招待したお客さんなんだ」
「そうだったの?」
「うん。先に彼と話したいことがあるから、いつもの部屋で待っていてくれないかな。詳しいことは、あとで話すよ」
一瞬、少女の表情が曇る。少年はそれに気づき、言葉を付け加えた。
「スカーレットとは、ゆっくりお茶を飲みながら話したいんだ。
前に作ってくれた、レーズンがたっぷり入ったカップケーキ。あれが食べたいな。お願いしてもいい?」
それを聞くと、少女は笑顔を見せた。
「もちろん! 私、大急ぎで作るからね。早く来てよ、ジェム!」
「うん、楽しみにしてるよ」
少年がうなずくのを見ると、すぐに少女は走り出した。きっと、急いで台所に向かうのだろう。
*
「さて」
少女の足音が消え、静かになった室内。真一郎はイスに座り、少年と向かい合った。
たくさんの書物や書架といい、目の前の大きな机といい、この場所は大昔の厳格な空気に包まれている。
少年は、昨日とは違う生成のシャツを着て、胸元にチョコレート色のリボンを結んでいた。少し古風な装いが、この空間と溶け合っていた。
真一郎はなぜか少し緊張して、少年の言葉を待った。
「まずは自己紹介から始めようか。僕の名前はジェム。ここは僕が暮らす屋敷だよ。
さっきの子は、スカーレット。僕の友達。よくここに遊びに来ているんだ。
君の名前は?」
ジェムは、真一郎に『君』と呼びかけた。まるで年下に話しかけているかのようだ。昨日とはまるで違う様子に、真一郎は戸惑う。
「遠見真一郎だ」
「遠見……真一郎……」
彼の名前を確かめるように、ジェムが呟いた。その表情は、やはり何かに悩んでいるようだった。
「なあ、聞きたいことが山ほどあるんだけどさ、とりあえず俺をここに連れてきてくれたのは君なのか?」
「そうだよ」
「こんな立派な家に住んでるのに、なんでコンビニになんかいたんだ?」
「そういう気分だったから、としか言えないなあ……」
ジェムの言葉は、何かを隠しているような、ごまかしているような印象を受けた。
疑問は増える一方だ。ジェム自身のことも、この屋敷のことも、不可解なことが多すぎる。
しかし、何から聞けばいいだろうか。
真一郎が迷っていると、ジェムが先に口を開いた。
「僕のほうからも、質問をしてもいいかな」
「あ、ああ……」
「遠見真一郎……君のお母さんの名前は何というの?」
「え?」
予想もしない質問に、真一郎はぽかんとしてジェムを見つめた。
「答えて」
ジェムの表情は真剣だ。
「母親か……マリエっていうらしいんだけど……」
「マリエ!?」
慌てて身を乗り出すジェム。
「どこ? マリエは、今どこにいるの!?」
急に大声を出したジェムに、真一郎は驚くしかなかった。
「いや、母さんは、俺が小さい頃に死んだらしいんだよ……俺はそのときのことを全然覚えてないから、実感もないんだが……」
「……マリエが、死んだ?」
信じられないと言う顔で、ジェムはイスに座り直す。
「……そんな……嘘だよ……」
ジェムの目に涙がにじむ。
「マリエ……」
信じられないと言いたいのは真一郎のほうだ。
なぜ、この少年が母のことを知っているのか。母が亡くなったのは二十年以上前のことだ。十代前半と思われるジェムが知っているわけがない。
「マリエ……」
ジェムが繰り返し名前を呼ぶ。その声に、覚えがあった。
それは昨夜、殺人鬼に襲われたときに聞こえた、奇妙な声。
『マリエ……』
『マリエの味がする……ねえ、マリエなの? マリエは、生きているの……?』
思い出した途端、真一郎はぞっとした。
まさか、昨夜自分を殺そうとしたのは、この少年だったのだろうか。
「……昨日の夜、君は、どうやって俺をここまで運んだんだ?」
真一郎は、必死に言葉を選んだ。できれば、自分の予感が当たってほしくなかった。
「持ち上げて運んだだけだよ」
泣きそうな声のまま、ジェムは答えた。
「俺はずっと寝てて、まったく気づかなかったんだ。一体どんな手品を使えば、そんなことができるんだ?」
「手品? 違うよ。昨日、君は自分で食べたよね、眠り薬の入った飴玉を」
それを聞くと、真一郎は立ち上がって、駆けだした。逃げようと思った。この少年は、やはりおかしい。
「真一郎?」
ジェムの声を無視して走り、図書館の扉を目指した。とにかく逃げなければ。
理由はわからないが、この少年は真一郎を殺そうとしている。
扉の前にたどり着くと、ドアノブに手をかけ、力いっぱい押した。しかし、真一郎の力ではびくともしなかった。スカーレットはこれを軽々と開けたのに、一体どうなっているのだろう。
焦って力任せに押していると、突然扉が外側から開いた。
「ジェム! カップケーキが焼けたわよ! ……あら?」
真一郎は、つんのめって倒れた。目の前にはスカーレットがいる。
「何やってるの?」
「スカーレット! 彼を捕まえて!」
「え? うん」
追いかけてきたジェムが、扉の前に顔を出した。スカーレットはよくわからないまま真一郎の腕を取った。
「放せ! お前ら、俺のことを殺す気なんだな!?」
「はあ? 何言ってるのよ?」
スカーレットがあきれた目で真一郎を見る。
「とぼけるな! 昨日の夜、俺を殺そうとしたのはお前たちだったんだろう!?」
はあ、とわざとらしくため息をつくスカーレット。
「……ジェム、この人、本当に何も知らないのね」
「そうみたいだ……」
スカーレットが真一郎の腕をつかみ、ジェムのほうを向かせた。まるで、剛腕の男に腕をつかまれたような感覚だった。
ジェムは困ったような顔をしながら、改めて真一郎のほうを見た。
「あのね、真一郎。昨日は、君を殺すために近づいたわけじゃないんだ」
「なら、なんだっていうんだ」
「食事のため……僕は、君たちの世界でいうところの『吸血鬼』だから」
「吸血鬼……?」
予想外の答えに、真一郎は信じられず聞き返した。
「昨日は久しぶりに人間の血が欲しくなって、あの場所でちょうどいい相手を探していたけど、なかなか見つからなくて。そうしたら君が通りかかったんだ」
吸血鬼。そんなもの、真一郎にとっては、映画の世界の話としか思えない。だが、信じるしかないと思った。
現に真一郎は、あのとき血を吸われたのだ。
「……つまり俺は、お前のワナにあっさり引っかかって、エサにされたわけか」
「ごめん。本当のことを言ったら、絶対に吸血させてもらえないと思ったから」
ジェムは素直に謝ったが、真一郎の気持ちは収まらない。
「俺は、あのとき本当に死ぬと思ったんだぞ……!」
本当はジェムにつかみかかりたい気分だったが、スカーレットに押さえられているので動けない。中途半端に身を乗り出すだけだ。
「もう、そのくらいにしておきなさいよ。結局生きてるんだから、別にいいじゃない」
スカーレットにきっぱりと言われ、真一郎は反論する気を失った。
彼女の気の強さは、千秋に少し似ている。こういうタイプと口ゲンカしても、真一郎はいつも勝てないのだ。
「……わかったよ。それじゃあ俺は血を吸われた後、ここに運ばれたのか」
「そうだよ。君の血は、少しだけマリエの味がしたんだ……。
君ならきっと、マリエのことを知っていると思って。話を聞こうと思ったんだ」
「またその話か……なあ、人違いじゃないのか? 俺の母親は、二十年以上前に死んだはずだ」
ジェムは急に真一郎をにらみつけた。
「そんなわけない!」
マリエと聞いた途端、どうしてこんなに感情的になるのだろう。やっと話がかみあったと思ったのに、またややこしいことになりそうだ。
「……ちょっと、二人とも。そこまでにしてよ。カップケーキが冷めちゃうわ」
カップケーキと聞いて、真一郎は気を引かれる。彼は昨日から空腹のままなのだ。
スカーレットが二人の手を片方ずつつかんだ。そのまま、ぐいと引っ張られる。
「ほら、早く! せっかくの焼きたてなんだから!」
「わ、わかったよ。一緒に行くから、手を離して!」
ジェムはよほど痛かったのだろう、困った顔でスカーレットに懇願した。
「じゃあ、一緒に行きましょう」
スカーレットは二人の先頭に立って、図書館を出た。上機嫌で庭園の小道を歩いていく。
「……あいつ、いつもこんな感じなのか?」
スカーレットにつかまれた腕をさすりながら、真一郎は隣に目を向けた。ジェムも、つかまれた手首を気にしている。
「うん、まあ……」
真一郎はひとりで苦笑した。千秋も気が強かったが、まさか彼女と別れたあとで、また似たような少女と出会うとは。本当に信じられない偶然ばかりが起こる。
「ねえ、二人とも、早く!」
スカーレットに急かされ、少し遅れていた二人はあわてて追いかけた。
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