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7.開かずの間の真実
やがて荷物を運び終えると、部屋の扉が現れた。
ごくありふれた、木の扉だ。鍵穴はない。ドアノブを回せば、すぐに開くだろう。
「ここが、マリエの使っていた部屋だ」
永一郎の言葉にうなずき、ジェムはドアノブに手をかけた。
軽く呼吸を整える。鼓動はなかなか落ち着かないが、以前のような痛みは、もうなかった。
がちゃり、と扉を開ける。
ジェムが最初に入り、あとに続いた永一郎が部屋の電灯をつけた。
ごく淡いクリーム色の壁紙。淡くやさしい水色のカーテン。落ち着いた木の色の机やベッド。絨毯はあたたかみのあるベビーピンク。絨毯の上には、子供の遊び道具がいくつも置かれている。
「マリエ」
思わずジェムはマリエの名前を呼んだ。
この部屋に、ついさっきまでマリエがいたかのように感じたのだ。
深い感情に、胸が圧迫されるような気がした。
マリエは、確かにここにいた。
そして、もう、ここにはいない。
二度と、帰ってくることはない。
ようやくジェムは実感を持った。
もう、二度とマリエに会うことはできない。
「これが、母さんの部屋……」
部屋の中を見て、真一郎も立ち尽くしていた。
記憶にない母。しかし、この部屋に入った瞬間、亡き母が確かにここにいたことを知った。
足元に転がる遊具で幼い真一郎が遊んでいたのは、間違いないだろう。
真一郎は父を振り返った。
父は、懐かしさと悲しさの混ざった目で、床の遊具を見つめていた。
「もう、あれから二十年以上たつのか……」
父はつぶやき、部屋の中に残されたひとつひとつに視線を向けていた。
「マリエが死んだという事実に、たえられなかったんだ。マリエが使っていた物を見るたびに、彼女がもういないということを思い出してしまう……そのときの私にとっては、とてつもない絶望だった。だから、すべてここに閉じこめた……」
ジェムと同じく、永一郎も大切な人との思い出をここに閉じこめたのだ。
永一郎の言葉はジェムの耳にも届いていた。ただ、目の前の光景に圧倒されているジェムにとっては、とても遠い声のように感じられたが。
スカーレットは入り口から中をのぞいたまま、一歩中に入ろうとはしなかった。ここから見るだけでも、マリエという女性が生きていた証拠を十分に感じている。
彼女は一度もマリエに会ったことはないが、ジェムから何度も話を聞いていた。
出会った直後のジェムは、いつも魂が抜けたようにぼんやりしていて、ときどきマリエの名前を呼んでは激しく泣き叫んだ。
しかし、スカーレットが目の前でそれを見ていたわけではない。いつもジェムは部屋に閉じこもって泣いていたのだ。スカーレットはその声を聞きながら、扉の前で立ちつくすばかりだった。
それから少しすると、ジェムはマリエを探すと言って屋敷中を歩き回った。隅から隅まで探すのは、途方もない時間がかかっただろう。それが徒労に終わることは、スカーレットも薄々感じていた。しかし、止めることはできなかった。
マリエはジェムにとって唯一無二の存在。心の支えなのだ。
それを失ったと気づいたとき、ジェムはどうなってしまうのか。
スカーレットは怖かった。ジェムを失うのが、怖くてしょうがなかった。
その頃にはもう、ジェムは彼女にとって一番大切な人になっていたから。
だから、ジェムの言葉を信じていた。マリエはきっと帰ってくると。信じて、ジェムのことを支えてきたつもりだった。
(ジェム……)
祈るように指を組み、スカーレットはジェムの背中を見つめていた。
ジェムは部屋の隅々まで、のこされたものを目に焼き付けていた。
見れば見るほど、胸の奥に迫るものは大きくなっていく。しかし、目をそらしたくはなかった。マリエがのこしたもの。マリエが大切にしていたもの。苦しくても、それらをちゃんと見ておきたかった。
机の上には、透明なガラス瓶が置かれ、ペンが何本か立ててある。
引き出しの中は細かく仕切られ、細々とした物がきちんと整理されている。彼女らしいと思った。引き出しの奥には、小さな香水瓶が隠してあった。手に取ったが、香りはほとんど感じられない。
イスの上には、花柄のクッションが置かれていた。きっと彼女が自分で作ったのだろう。その丁寧な縫い目ひとつひとつに、マリエの姿が浮かんだ。
小さな本棚には書類や実用書に混ざって、少しだけ絵本もあった。上下が逆さまになって収められているものもある。
ベッドには大人用と幼児用の寝具が用意してある。ここで真一郎と一緒に寝ていたのだろうか。ベッドの柱は新品のようにきれいなままだ。柱を指でなぞれば、まだ新しい木の感触が残っている気がした。
最後に、部屋の奥にクローゼットがあるのを見つけた。ぴったりと閉じられた扉を開くと、木材と布の匂いがする。
中に入っているのは、すべてマリエの服なのだろう。ジェムは体が震える。
この部屋の中のどれよりも、マリエがいたという事実をはっきりと示しているのだ。
震える手で、ジェムは中の服を取り出していった。
この家に来てから手に入れた服なのだろうか。ジェムにはなじみのない色や形ばかりだ。しかし、どの服にもマリエのあたたかい匂いが残っている。
マリエがここにいたという、何よりの証拠。
そして、マリエがもうどこにもいないという、何よりの証拠。
服を取り出していくうちに、ジェムの震えはますます止まらなくなった。クローゼットの服は、あと少しだけだ。ジェムは気づいたことがある。あの服がない。きっと、あるはずなのだ。この中の、どこかに――――。
そして、クローゼットの奥の奥にあった、最後の一枚を手に取った。
全身がガタガタと大きく震えはじめた。
何も考えられない。体に力が入らない。
ジェムは絨毯の上にへたりこんだ。もう、立っていることができなかった。
「マリエ」
口から出てくるのは、彼女の名前だけだ。
きっと声も震えきっているだろう。
「マリエ……」
ジェムは最後の一枚をぎゅっとつかみ、胸に押し当てた。
もう二度と放したくない気持ちと、おそろしくて放り出してしまいたい気持ちが、交差する。その戸惑いさえ振り切るように、最後の一枚を強く強く抱きしめる。
「マリエ……! ……ぅ、……うっ……」
マリエの名を呼びながら、ジェムは泣き出した。
胸を圧迫する強い感情に、たえきれなかった。
「……ぅ、うっ、ぁ……ぁあああ! マリエ! マリエ……!!」
次から次へと涙がこぼれてくる。もう止められない。胸が苦しい。息ができない。何も見えない。苦しくて苦しくて、ただ泣くしかできなかった。
「マリエ……っ! うぅ……っ……ぅ、ぅぁ、あ……っ」
どうして、と言いたかった。
帰ってきて、と言いたかった。
もう一度会いたい。会いたかった。しかし、もうそれは叶わない。
マリエは死んだ。
死んでしまった。
今、ジェムの手の中にあるのは、彼女の『遺品』。
残酷なほどに、明確に、疑いようもなく、彼女の死をジェムに突きつけた。
あの夜。
マリエがジェムを置いて姿を消した夜に。
彼女が来ていた服だ。
ジェムはよく覚えている。
彼女が、一番気に入っていた服だったから。
それが、ここにある。
今、二十年以上の時を経て。
ジェムの腕の中に。
「ぁぁあああ……! っ、うそ、だよ……こんなのうそ、だ……!! うそじゃ、ないの……ね、え、っ、ぅう……マリエ、マリエ……!」
大丈夫だと思っていた。
けれども、大丈夫ではなかった。
マリエの死がつらかった。
苦しくて苦しくてしょうがなかった。
「う、……ぁあぁあああぁあ!!!」
涙が止まらない。
ただひたすら泣いて、叫んで、それしかできなかった。
胸が押しつぶされそうだ。
どうしたらいいのか、わからない。
何もできない。
何も考えられない。
息すらできなかった。
わからない。
どうすればいいか、わからない。
どうすることもできない。
苦しい。
ただ苦しい。
心も体も全部押しつぶされてしまう。
これが悲しいということなのだろうか。
そんな言葉では言い表せないほど、
苦しい。
ジェムは泣き続けた。
*
ジェムは、マリエの服を抱いて泣いていた。
真一郎もスカーレットも永一郎も、少年の泣き叫ぶ姿に胸が痛んだ。
あまりにも激しく悲痛な声に、ジェムがどうなってしまうのか心配でならない。スカーレットは思わず涙を浮かべた。
しかし、彼らにできることは、少年をそっとしておくことだけだ。ジェムが泣き止む気配はない。
むせび泣くジェムを部屋に残し、――もちろん本当はジェムのことが心配だ――三人はそっとリビングに戻った。
「ジェム……大丈夫かな……」
リビングで紅茶を注ぎながら、スカーレットがつぶやいた。
彼女もまだ涙をこぼしている。涙声でジェムのことばかり気にしていた。
「……そっとしておくしか……ないだろうな……」
永一郎が絞り出した声は重くリビングに響いた。
心配ではあるが、無理矢理あの部屋から引き離すわけにもいかない。そんなことをすれば、ジェムの悲しみは一生消えないだろう。
今は、ジェムがひたすら泣いて、落ち着くのを待つしかない。
三人とも、うつむいていた。
スカーレットが紅茶の入ったカップをそれぞれの前に置く。かちゃ、という陶器の音がやけに大きく聞こえた。
「さあ、どうぞ。せっかくの紅茶が冷めてしまうわ」
「……ありがとう」
「悪いな、スカーレット……」
スカーレットは台所を借りて紅茶をいれてきたのだ。こんなことでも、何もしないよりは、いくらか気が紛れた。
それぞれが黙って紅茶を口に運ぶ。
すでに夜更けだ。あたりは重く静まり返り、窓の外には深い深い夜の闇が広がっていた。
「……そうだ、二人ともお腹空いたでしょう? 私が何か作るわ」
「いや、それなら俺が」
スカーレットの提案に、真一郎が立ち上がる。
「でも……」
「一応俺の家なんだ。お前は客なんだからゆっくりしてろ」
「……真一郎、料理、できるの?」
心配とばかりにスカーレットは真一郎を見ていた。
「何言ってんだ。前は俺があの台所で料理してたんだぞ」
「ふうん……」
スカーレットは不思議そうな目をしていたが、結局立ち上がった。
「でも、真一郎が作った料理がジェムの口に合うかはわからないわね。心配だから、私も手伝うわ」
「おい……」
「まあ、いいじゃないか。せっかくだから、お言葉に甘えさせてもらおう」
永一郎に言われてしまい、真一郎はしぶしぶといった様子で一緒に台所へ向かった。
一人になった永一郎は、ずっとリビングで座っていた。
台所の中からは、二人の会話が聞こえてくる。永一郎はなぜかほっとして、背もたれに体を預けた。
いったい何年ぶりだろう。この家で、こんなににぎやかな声が聞こえるのは。
*
やがて、真一郎とスカーレットが料理を運んできた。
薄切りの豚肉を焼いて塩コショウで味付けしたもの。キャベツとコーンを手製のドレッシングであえたもの。ゆでたサツマイモと薄切りのリンゴを混ぜて、甘く味付けしたもの。
簡単な料理ではあるが、永一郎は喜んでいた。
「……まさかもう一度、真一郎の料理を食べられる日が来るとは思わなかった」
料理を食べながら、永一郎は急に目頭を押さえた。
「なんだよそれ……俺が死んだみたいにいうなよ」
「死んでしまったかと思っていたんだ……」
「う、……悪かった」
父の気持ちを考えていなかったことにまた気づかされ、改めて真一郎は心の中で反省した。
料理自体は、特別手が込んでいるわけでも、味が優れているわけでもない。それでも、こうしてまた親子で食卓をともにすることができたのだ。父にとっては、とても感慨深いものなのだろう。
「うん、なかなかうまくいったわね」
スカーレットは自分の分を食べながら、満足そうにうなずいた。
「お前、さんざん口出ししてきたな。それで満足か?」
「そうね。これならジェムも気に入ってくれると思うわ」
「ああ、そうだね……マリエの料理の味に、似ているよ」
「親父?」
思わぬ評価に、真一郎は驚いて父のほうを向いた。
「マリエさんの味に? やっぱり……そうだったの……?」
スカーレットが『やっぱり』というのが、真一郎は気になった。
「私は、どうしたらジェムに喜んでもらえるのかなって思って、いろいろ試していたら、こうなったの」
「やはりそうなのか。そうだ、あの子もよく知っていたはずだ。マリエの手料理の味は……」
永一郎が再び目に手を当てた。
帰ってきた息子の手料理。亡き妻の味。彼にしかわからない深い感慨で、きっと胸がいっぱいなのだろう。
「そっか、マリエさんの料理の味に似てたのね。だからジェムは喜んでくれたんだわ……」
スカーレットはうれしそうなふりをして、実際には悲しげな目をしていた。
「私、マリエさんの代わりになれるかな……」
そう口にした途端、スカーレットの目から涙がこぼれ落ちそうになる。
「母さんの代わり、って……なってどうするんだよ……」
「だって、ジェムには、マリエさんが必要でしょ? 私がマリエさんの代わりになったら、ジェムは元気になってくれるかな、って」
「おいおい、おかしなこと言うなよ……」
「……本気で……言ってるのよ……」
スカーレットがうつむく。泣いているのかもしれない。
「だって、ジェムはマリエさんのことしか見えてなくて、私が一緒にいてもずっとマリエさんのことばかり考えてて……。
ジェムに私のこと見てほしいけど、そのためにはマリエさんの代わりになるしか……」
「……やめなさい、そんなことは」
永一郎が静かに言葉を遮る。
「いない人の代わりになっても、何の解決にもならない。きっと、お互いつらくなるだけだ」
「でも……!」
「ああ、俺もそう思う」
「真一郎まで……」
スカーレットはすっかり気落ちしてうなだれてしまった。真一郎は構わず続けた。
「たいだいな、母さんの代わりにならなくたって、ジェムはお前のこと、ちゃんと見てるだろ?」
「見てないわよ、きっと……」
「本当にそうか? ジェムはお前が作ったケーキや紅茶をあんなに誉めてたじゃないか。お前を見てないなら、あんなこといちいち誉めたりしないと思うぞ」
「別に、だって、あれはいつものことだし……ただのお世辞よ……」
「俺にはそうは見えなかったけどな。いつも言ってたんなら、けっこう本気なんじゃないか? 俺だったら、絶対言わない。お前のあんな料理で」
「う、何よ、その言い方……」
スカーレットが少しだけ顔を上げて、にらんできた気がした。
「俺がそう思ったってだけだ。本当はどうなのかは、本人に聞いてみるしかないだろ?」
「ほ、本人に聞くって……」
急にスカーレットがうろたえたのを見て、真一郎は笑いそうになってしまった。まだスカーレットは、そういう年頃なのだ。
「何笑ってるのよ。……自分は恋人に振られたくせに」
「ぐ、……」
思わぬ反撃の言葉に、真一郎は言葉を詰まらせた。思い出したくなかった現実に引き戻される。
「なっ、……恋人!? 真一郎、それは本当なのか!?」
父もさすがに驚いたようだ。珍しく大声を出して、真一郎のほうへ身を乗り出した。
あまり話したくなかったが、こうなったら仕方がない。
「あ、ああ……佐藤千秋って名前で、都会に出てから知り合ったんだ。住むとこがなかったから、ずっと千秋の家に居候してた。
……けど、この間、千秋とケンカになって、いきなり家を追い出されたんだ。それっきりだよ」
思い返せば、我ながら情けない話だと思う。実の親にこんな話をする自分が情けない。
「その彼女とは、それきり会っていないのか」
「ああ、だから安心していいぞ。当分はこの家にいるから」
「そうじゃないだろう」
「え?」
父に叱られそうな気配を感じ、真一郎は困惑した。
「お前、ちゃんとその人に謝ったのか」
「謝るも何も、一方的に追い出されたんだよ。こっちの話なんか聞きもしない」
「本当は、もっと言いたいことがあったんじゃないのか? ちゃんと伝えなくてよかったのか?」
「そんなこと言われてもな……」
あのときの千秋の剣幕は、話し合いなんてできる雰囲気ではなかった。問答無用、もう顔も見たくないといった様子だった。
何もかも頼ってばかりだった真一郎にとっては、縁を切るといわれれば、それ以上どうすることもできない。
「千秋さんといったか。まだ若いのだろうが、いつまでも無事に生きている保証はないんだぞ。世の中何が起きるかは、わからない。伝えたいことがあるなら、ちゃんと伝えておくべきだ」
「わ、わかってるよ」
あわてて返事をする真一郎だが、父の目は険しい。
「……私も、マリエと結ばれた直後には、思っていなかったんだ。まさかマリエがこの世からいなくなってしまう日が来るとは……」
「あ……」
真一郎は、ようやく父の言いたいことを理解した。
そうなのだ。父も、母を失うことなど予想していなかった。大切な人が、いつまでもずっとそこにいるとは限らない。千秋の身にそうした不幸が降りかからないという保証は、どこにもないのだ。
「真一郎。本当に未練はないのか? 今のままで、後悔はしないか?
伝えたいことがあるなら、伝えたほうがいい。彼女のことがまだ好きなら、ためらうな。もし新しい男がいるなら、奪ってでも、取り戻せ」
「親父……」
父の口から激しい言葉が出るのを、真一郎は信じられない顔で見ていた。
奪ってでも。普通なら、親が子に言うようなことではないだろう。こんなに激しい言葉が、父の胸の中にあったのだ。
その激しさゆえに、父と母はすべてを捨ててでも愛し合ったのだろうか。そしてその血は今、真一郎の中にも生きている。
「そうだな……」
具体的に何を言って、どうしようというのかは、まだ定まらない。しかし真一郎は、もう一度千秋に会いたかった。あんな形で一生の別れになってしまうのはいやだ。情けないと思われても、もう一度千秋に会って謝りたい。自分の気持ちを伝えたい。
真一郎はぐっと手のひらを握った。千秋の顔を思い出すと、不思議と力がわいてくるような気がした。
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