8.つながる気持ち-1

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8.つながる気持ち-1

 食事と片づけの後、三人はとりとめのないことを話したり、黙り込んだりした。  ジェムが部屋から出てくる気配はない。  夜が、更けていく。  もしかしたら、今が夜の底かも知れない。スカーレットはそんなことを考えていた。  真一郎と永一郎はイスに体を預けたまま微動だにしない。きっと眠っているのだろう。  いつも夜に活動するスカーレットは眠気も起きず、イスに座ったままぼんやりしていた。  電灯がときどき、ちかちかと瞬いた。電気で灯る明かりはとても明るいはずなのに、外の闇の深さに負けてしまいそうだ。  何の音も聞こえない、時が止まったような重い静寂。スカーレットには慣れたものだ。あの屋敷は、いつもこのくらい静まり返っている。  テーブルの上には、ジェムの分の食事が残っていた。  ジェムがいない。スカーレットにとって、不安に感じる要素はそれだけだ。それだけが、とても気がかりだった。  どれほどの時間が経っただろう。  ぼんやりしていたスカーレットの耳に、静かな足音が聞こえた。 「ジェム……!」  スカーレットはジェムに駆け寄った。声をひそめて、名前を呼ぶ。  大丈夫なの、と言いかけて、言葉をのみこんだ。大丈夫なわけがない。ジェムは泣きはらし、疲れきった顔をしている。しかしその目だけは、少し平静を取り戻したように見えた。 「……のどが、乾いちゃった。水をもらえるかな」 「ええ、すぐ持ってくるわ!」  スカーレットは大急ぎで水を持ってくる。ジェムをイスに座らせ、水の入ったコップを渡した。彼が水を飲む様子を、スカーレットはもどかしい気持ちで見守った。 「……ありがとう」  水を飲み干すと、ジェムはそれだけ言った。いつもの表情は、まだ戻っていない。力のない無表情が、スカーレットの不安をかき立てる。  彼の手に触れたら、あるいは体を抱きしめたら、その悲しみも少しは和らぐのだろうか。そんなことを考えながらも、スカーレットは言い出せなかった。 「ジェム、お腹空いてない? これ、真一郎と一緒に作ったの。よかったら、食べてみて」  できるだけいつもと変わらない声で、変わらない表情で、スカーレットはジェムに話しかける。 「ありがとう……でも」  ジェムはためらいがちにつぶやく。急にスカーレットの耳元に近づき、ささやいた。それを聞いたスカーレットは少し赤くなって、うなずいた。二人は連れ立って外に出た。 *  外に出ると、闇は深く辺りを塗りつぶしていた。街灯の光はここまで届かないのだろう。夜に慣れた二人には、こちらのほうが都合がいい。  小さな庭のある方へ回ると、ジェムはスカーレットを壁の方に向かせた。 「ジェム?」  ジェムの顔が見えないことを不安に思い、スカーレットは振り返ろうとした。しかし、それはできなかった。  突然、乱暴なほど強く、後ろから抱きしめられたのだ。 「ジェム……!?」  ジェムは何も答えない。反射的にスカーレットは身をよじろうとしたが、それ以上の力でジェムが押さえつけてしまう。 「ジェム……どうしたの……」  体が密着しているが、体温のあたたかさより、指先の冷たさのほうに意識が向かう。ジェムは何も答えてくれない。ただ、強く強く抱きしめるだけだ。  スカーレットはそれ以上何も言えず、辺りは静まり返った。  わずかな風が頬をなでる。  風の中に、金木犀の香りがする。  ひんやりとした夜気。  周囲を深く覆う夜の闇。  静かな夜の中で、スカーレットはジェムの体温を、すぐ近くで感じていた。 (どうしよう……私、うれしいはずなのに、どうしたら……)  ジェムに抱きしめられて、うれしいはずなのに。スカーレットは戸惑っていた。  ジェムの顔は見えない。彼は今どんな気持ちなのだろう。マリエを失って、とても悲しいはずなのだ。スカーレットに『血が欲しい』と頼みはしたが、本当は別の思いがあるのかもしれないと気づいた。 「……ごめん」  長い時間が流れ、やっとジェムがそうつぶやいた。 「ごめんね、スカーレット……こんなことして」  弱々しい言葉に、スカーレットは胸がしめつけられる気がした。  なんと声をかければいいのだろう。なんと言えば、ジェムの心をなぐさめることができるのだろう。スカーレットには思い浮かばなくて、黙り込んでしまった。 「……僕は、ずるいのかな……」  ジェムが急にそんなことを言う。 「どういうこと……?」  そう尋ねてから、スカーレットは良くないと思った。きっとジェムは、真っ先に否定してほしかったのだ。  ジェムはしばらく何も言わなかった。  スカーレットはもどかしくなった。体は触れ合っていて、こんなに近いのに、ジェムの考えていることが何もわからない。 「……スカーレット」  何かの意志を秘めた声に、胸の内がざわつく。 「僕は、君のことが……」  一瞬、スカーレットの思考が止まった。  好き。  君のことが、好き。  ジェムが、そう言った。  言葉の意味を理解するまでに、とても長い時間がかかった。 「ジェム……」  何と答えればいいかわからない。スカーレットは呆然としたまま、ジェムの名前をつぶやいた。 「迷惑……かな……」 「そ、そうじゃないの……」  スカーレットはあわてて首を振ったが、その先に続く言葉が出てこない。 「ええっと、そうじゃなくて、……私、その、えっと……」  意味のない言葉ばかりが口をついて出る。  本当は、うれしい。  ジェムに好きだと言ってもらえて、本当にうれしい。  ずっと、そう言ってもらえる日を待っていたのだから。  しかし、それが今この瞬間であることが、スカーレットを迷わせていた。マリエを失って悲しみに暮れているはずのジェムが、なぜ今そう言ったのだろう。 「私で、いいの? マリエさんじゃなくて、私で、いいの?」  ジェムが息をのむのがわかった。  と同時に、言ってはいけないことだったと、スカーレットは内心、後悔した。 「ずるいよね……僕は……」 「ジェム、あの、ごめんなさい、私……」 「ううん、やっぱり、いけないことなんだ。こんなの……」  ジェムが腕を離す。離れてしまった二人の体を風が通り抜けて、急にスカーレットは寂しさを感じた。 「ち、違うのよ! 私、ジェムに好きだって言ってもらえて、うれしいの。でも、ジェムは本当にいいのかな、って心配で……」  スカーレットは思わず振り返っていた。ジェムはうつむいてしまって、顔が見えない。 「……僕は、マリエのことがずっと好きだった。今でも、好きなのかもしれない。でも、スカーレットのことも、好きなのかもしれない」  ジェムは自分のことを話しているはずなのに、どこか他人事のように話す。 「おかしいよね」 「……おかしくなんて、ないと思うけど……」  スカーレットは胸元で手のひらをぎゅっと握った。ジェムが、まるで知らない誰かに変わってしまったように見えた。 「スカーレット……僕は、どうしたらいいのかな……?  おかしいんだ。マリエが死んだってわかって、すごく悲しいのに、少しほっとした。これからはもうマリエのことを考えないで済む、って。あんなにマリエのことが好きで、僕にはマリエしかいないって思っていたのに……」  スカーレットには答えられなかった。ジェムの気持ちを察することができないのが、悔しいけれども。 「……そうしたら、今度はスカーレットの顔が浮かんだんだ。僕は、おかしいよ……マリエが死んだってわかった途端、今度はスカーレットになんて……都合が良すぎる……」 「そ、そんなの、別にいいじゃない……ジェムが好きだって思うなら、遠慮なんてしなくていいと思うわ」 「でも……」  スカーレットが言い終わらないうちから、ジェムは言いかけていた。まるで彼女の言葉を拒むように。 「こわいんだ……これ以上スカーレットと一緒にいたら、マリエのことを忘れちゃうんじゃないかって。  でも、これから僕ひとりになるのもこわい……。マリエがいないってわかったら、僕は本当にひとりぼっちで、もうマリエの思い出にもすがれないんだ。  だから、スカーレットが隣にいてくれたら、って……ううん、だめだ、こんなの……好きだなんて言って、結局、スカーレットを利用しているだけじゃないか……」  話しているうちに、ジェムは頭を抱えてしゃがみこんでいた。その目は地面ばかり見て、スカーレットを見ていない。 「ジェム……」  スカーレットもしゃがみこんで彼を見た。  涙が止まったように見えても、ジェムの心はまだ傷ついたままなのだ。  傷ついて、疲れきった心の中で、また彼を苦しませる感情の存在に気づいてしまった。今、傷ついた心で答えを出そうとするのはつらいだろう。 「ジェム……いいのよ、今それを決めなくて、いいの」 「だめだよ……好きだって言っておいて、こんな勝手なこと……」 「私がいいって言ってるんだから、いいの。  私、いつまでも待つわ。だから、ゆっくり、落ち着いて答えを出して」  ジェムはうつむいたまま、首を横に振る。泣いているのかもしれない、とスカーレットは思った。 「ずっとマリエさんのことが好きなら、それでもいいのよ。それでも私は今までどおり、ジェムに会いに行くから。ひとりぼっちになんて、絶対にしないから、安心して」  ジェムは答えない。  その姿が弱々しくて心配になり、スカーレットはふと手を伸ばし、ジェムの髪に触れていた。少しだけ彼がスカーレットを見る。 「答えなんて、出せるのかな。僕は、自分がどうしたいのか、全然わからない……自分のことなのに、何もわからないんだ……」  力無く、呆然と悲しみに沈んだ目。その目を見たとき、スカーレットははっとした。  ジェムは今、こんなにも傷ついている。  スカーレットは腕を伸ばす。  彼を胸に抱き寄せていた。 「大丈夫」  はっきりと、強く言い聞かせるように言葉を紡ぐ。 「大丈夫よ。何も心配しないで」  ただ、それだけを伝えたかった。  過去のことも未来のことも、今はどうでもいい。  とにかく、ジェムに安心してほしかった。  安心して、この胸にすがってほしかった。 「スカーレット……」  ジェムはスカーレットの腕の中にいても、驚いた様子はなかった。呆然としたまま、大人しく腕に抱かれている。 「今は何も考えなくていいの。難しいことは、あとで一緒に考えましょう」  やさしく、やさしく言い聞かせて、スカーレットはジェムの背をなでた。 「あ……だ、だめ、だよ……」 「いいのよ。遠慮しないで」  ジェムは体をふるわせ、離れようとする。スカーレットは半端に離れるジェムを、そっと引き寄せた。 「だって……こんなに優しくされたら……僕……また泣きそうで……」  必死に顔を隠そうとうつむくジェム。その声はすでに涙混じりだった。 「うん、泣いていいのよ……とっても悲しいんだもの、我慢しないで泣いて」  スカーレットがジェムの頭をなでる。 「だめだよ……僕は、そんなの……」  ジェムはあくまで首を振って拒んだ。 「スカーレットに、泣いてるところ見せたくない……のに……」  その言葉を聞いて、スカーレットは思い出した。ジェムは今までもスカーレットの前で涙を見せなかった。本当は、誰も見ていないところで、たくさん泣いていたのに。 「悲しいときは、思い切り泣いて」  ジェムの悲しみを受け止めて、少しでも支えになりたい。スカーレットはずっとそう思っていた。きっと、今がそのときなのだ。 「少しでも、あなたの悲しみを受け止めたいから」  スカーレットはジェムを強く抱きとめた。 「スカーレット……」  ジェムもスカーレットに身を寄せた。  苦しげな息づかいが、とぎれとぎれに聞こえてくる。やがてそれは、はっきりとした嗚咽へと変わった。 *  空がゆっくりと明るくなっていく。  もうすぐ夜が明ける。  スカーレットは、ジェムを抱きしめたまま、ぼんやりと空を見上げた。  夜が明ける前に、二人は帰らなければならない。太陽の光は体に毒なのだ。  しかし、ずっとこのまま二人で寄り添っていたい気持ちもある。ジェムに声をかけるか迷いながら、スカーレットはジェムを支えなおした。 「ん……」  彼女の腕の中で、ジェムが身じろぎする。泣き疲れたのか、ジェムは目を閉じていた。もしかしたら、眠りかけていたのかもしれない。 「ジェム……。ごめんね、起こしちゃった……?」  ためらいがちに、スカーレットは声をかけた。 「ううん……大丈夫……」  ジェムが少しだけ首を振った。重そうなまぶたを開こうとして、また閉じてを繰り返している。 「もうすぐ……夜明けかな……。早く帰らないと……」 「そうね。帰りましょう」  ジェムが『帰る』と言ったことに、スカーレットは少し安心した。スカーレットにもたれかかっていた体を支え、起き上がれるように手伝う。 「うん……ありがとう、スカーレット……」  まるでうわごとのように芯のない声なのに、こんなときでもジェムは『ありがとう』と言ってくれる。  スカーレットは心臓がどきんと脈打つのを感じていた。 (やっぱり、変わらない……私の大好きなジェムに、変わりはないわ)  マリエの死を受け止めたら、ジェムは変わってしまうのではと、こわかった。でも、そうではなかった。たくさん泣いて、悲しんで、さまざまな感情に苦しめられても、ジェムはジェムのままだ。スカーレットの一番大切なひとのままだ。  ジェムの悲しみが癒えるまでには、時間がかかるだろう。  だからこそ。  スカーレットは決めたのだ。  今、はっきりと、自分の心の中で誓った。  絶対に彼のそばを離れないと。  大切な人を、決してひとりにはさせないと。  ジェムが重たいまぶたを、ゆっくりと開く。二人はそのまま、自然と見つめ合っていた。  やがてその視線がそっと離れると、彼らはどちらともなく手をつなぎ、歩き出した。
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