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1.突然の別れ話
遠見真一郎(とおみ しんいちろう)は、今日、恋人の家から追い出された。
きっかけは些細なことだった。
今日は十月十日、恋人である佐藤千秋(さとう ちあき)の誕生日だ。同棲中――というより、真一郎が千秋の家に居候していると言った方が正しい――のふたりは、当然、家で誕生日を祝うつもりでいた。千秋は何日も前から準備していて、真一郎には「絶対に早く帰ってきて」と何度も念を押していた。
しかし、今日に限って真一郎のアルバイトが夜遅くまで長引いてしまったのだ。仕事が終わり、大急ぎでアパートに帰った真一郎が見たのは、完全にへそを曲げた千秋の姿。そして、小さなカバンに押し込められた真一郎の日用品だった。
「なあ、そのカバン、何だ……?」
玄関先に立ち尽くし、真一郎は尋ねた。
「何じゃないでしょ!? 真、あんた、あたしの誕生日なんか、どうでもいいって思ってるの!?」
「そ、そんなわけないだろ!」
「じゃあ、なんでこんなに遅かったの? もう夜中の二時なんだけど」
「しょうがないだろ、バイトで遅くなったんだよ」
「ほんと?」
「十時に来るはずだったバイトの奴が来なくて、しょうがないから俺がずっとレジやってたんだ! 嘘だと思うならあの店に電話でもすればいいだろ!」
「……」
千秋は無表情だった。彼女は黙ったまま、重いカバンを投げつけた。真一郎には当たらなかったが、ドスン、といやに重い音が聞こえる。
「なんだよ……」
「さよなら」
「さよなら、って、お前……!」
「もう真とは一緒に住めない。バイバイ。残りの荷物は実家に送っておくから。着払いで」
「お、おい、待っ……!」
――――バタン。
問答無用で、ドアは閉まった。
*
「理不尽だよなあ……」
真一郎は近所の公園に来ていた。残されたカバンを傍らに置き、ひとりベンチに座る。公園にある時計は、午前二時半を指している。
「今夜はここで寝るしかないか……」
呟いて、ベンチで横になる。千秋の家以外に真一郎が行けるところはなかった。
実家は遠い。金はない。友人もいない。
(なんか、あいつに出会う前に逆戻りしたみたいだな……)
そもそも真一郎は、数年前、千秋に拾ってもらったのだ。
彼は高校を卒業したあと、父に黙って都会へ出てきた。行くあてはなく、適当にアルバイトして漫画喫茶で寝るような生活をしていたが、あっという間に金はなくなった。
そんなとき、アルバイト先で千秋と出会った。彼女はその会社の社員だった。昼食も取らない真一郎を心配して、差し入れを持ってきたり、一緒に食事に行ったりと世話を焼いた。そうして段々と気に入られ、いつの間にか付き合うことになり、真一郎は彼女の住むアパートに転がり込んだのだ。
(まあ、結局俺は、ただの『ヒモ』だしな……いつ追い出すのもあいつの自由か……)
そう自分に言い聞かせ、あきらめようと考える。
彼女は優秀な社員、真一郎はただのフリーター。釣り合わないのは、明らかだった。
彼女と付き合っていることがバレないよう、別のアルバイトを始めたのは、真一郎の精一杯の見栄のつもりだったが――――
それが今日、裏目に出た。
「ちくしょう……」
やり場のない気持ちというのは、文字通りどうすることもできない。気持ちの整理がつかなかった。
しかし、今は腹の虫のほうが問題だ。
「……腹減った」
本当なら、家で今頃千秋の誕生日を祝っているところだったのだ。
彼女が昨日買い込んでいたものを思い出す。デパートの高級ケーキ。人気のベーカリーで注文したというサンドイッチ。有名フレンチシェフが出かけたというオードブル。どれもこれも、千秋がいなければ一生食べられないものばかりだ。思い出すだけで空腹がひどくなる。
真一郎は体を起こして、財布の中を見た。所持金は二百五十円。何かしら食べ物は買えるだろう。そう考え、公園から歩いて十分ほどの場所にあるコンビニを目指して歩き出す。
公園の裏手にもコンビニはあるが、そこは彼のアルバイト先なので避けることにした。
そうして歩きだして、真一郎は気がついた。
(この匂い……たしか、金木犀だよな)
どこからか甘い香りが漂ってくる。彼にとっては懐かしいものだ。実家のすぐ近くに金木犀の木があって、毎年秋になると家中で香りを感じた。彼が幼い頃に亡くなった母は、金木犀が好きだったらしい。
*
真一郎はコンビニに足を踏み入れると、店内の明るさに一瞬顔をしかめた。夜の暗さに慣れた目には、コンビニの照明は明るすぎる。
足早に冷蔵ケースの前に移動し、できるだけ安いおにぎりを探した。だが、どれも売り切れだ。残っているのは百六十円や、百八十円と高いものばかり。これでは一個しか買えない。おにぎり以外の棚も似たようなものだ。
迷った末に百六十円のものを一個だけ買って店を出た。
そのとき、
(こんな時間に、子供……?)
小学校高学年か中学生と思われる少年の姿は目に入った。
少年はコンビニの入り口近く、車止めの石の上に腰掛けていた。
今時の子供には珍しい、白いシャツと半ズボン姿。一目見ただけで、不思議と育ちの良い子なのだろうと感じた。
真一郎は見て見ぬふりをして通り過ぎようとしたが、少年と目が合ってしまった。しかも少年は目をそらすこともなく、じっと真一郎を見ている。
こんな時間に子供がひとりでいるのを、放っておいていいものか。少し考え、彼はおそるおそる声をかけた。
「あー、えっと、誰かを待ってるのか?」
「ううん」
少年は首を横に振る。
「じゃあ、なんでこんなところにいるんだ?」
「お腹が空いたから」
「ここで何か買うために来たんじゃないのか?」
「僕、お金持ってないから」
真一郎はますます困惑した。もしや、この少年は、誰かから食べ物をもらえると当て込んでここに座っているのでは。
(いや、俺は絶対やらないからな。俺の食料はこのおにぎり一個しかないんだ。別の奴に頼め)
彼はそう言おうとした。
しかし、あとから店を出てきた数人の客は、足早に彼らの横を通り過ぎていった。この少年など、目に入らないかのように。
少年は、それを気にするそぶりも見せず、真一郎をじっと見ている。
(仕方ない……)
何か訳ありの子供なのは、間違いないだろう。こんな子を放っておくわけにはいかない。
「こんなので良ければ、食うか?」
真一郎は自分のおにぎりを少年に見せた。
「一個しかないから、君にあげるのは半分だけだぞ」
念を押してから袋を開け、おにぎりを半分に割る。そして片方を少年に差し出した。
「いいんですか?」
少年はきょとんとした顔で、それを受け取る。真一郎はさっさと自分の分を口に入れた。
「腹が減ってるんだろ? ここで待ってても、どうせ何ももらえないぞ。これで我慢しろ」
「……ありがとうございます。それでは、ご厚意に甘えて、いただきます」
少年は礼を言うと、おにぎりを一口かじった。年相応の幼さが残る顔に、うれしそうな表情が浮かぶ。
「それ食ったら、早く帰れよ。親が心配してるだろ」
食べながら、少年がうなずく。これで一応解決しそうだ。真一郎は安堵して立ち去ろうした。
「あ、待ってください」
「ん?」
「お礼に……こんなものしかないですけど……」
少年がポケットから出したのは、セロファンに包まれた飴玉だった。セロファンには赤と白の水玉が印刷されていて、両端はねじってある。
「ありがたくもらっておくよ」
飴玉ひとつでは空腹の身には足りないが、ないよりマシだ。真一郎は飴玉を受け取って口に入れ、少年と別れた。
*
公園に戻ってくると、真一郎は急に眠気を感じた。ベンチの上で横になると、すぐに眠ってしまう。
金木犀の香りが辺りを満たしている。
静かな風が、木々を通り抜けていく。
空気は少しひんやりしているが、寒すぎず、気持ちの良い夜気だ。
真一郎はぐっすりと眠っていた。それを妨げたのは、誰かの気配。
何者かが、真一郎に近づいてくる。
(もしかして……)
心当たりはひとつしかない。
(警察に……見つかったか……?)
ぼんやりした頭で『逃げなければ』と思ったが、あまりの眠気に体が動かない。目を開けることすらできなかった。
その間に、何者かがどんどん近づいてきた。
警察に見つかると、どうなってしまうのだろう。実は今までにも公園で寝たことはあったが、警察に見つかったことは一度も無かった。できれば、交番で注意されるくらいで済んでほしいのだが。
真一郎の肩に、手が置かれる。
とても冷たい手だ。
きっと警察ではない、と彼は思った。では誰なのか。それはわからない。
真一郎の首へと手が移動する。誰かが顔を近づけてくる気配がした。
いやな予感。しかし、こんなときなのに体が動かない。
そして、首筋に痛みを感じたとき、やっと真一郎は気づいた。
殺人鬼かもしれない、と。
鋭い何かが首筋に突き立てられている。
そこから血が溢れ出した。かなり出血していると思う。
何者かの舌が、彼の首を伝った。血を舐めている。
いや、飲んでいるといったほうが正しいか。
首筋に突き立てられたものが、どんどん深く食い込んでいく。
真一郎は凍りついていた。体から多量の血が失われるのを感じる。
まさか自分が殺されるなんて、思わなかった。
死にたくない。
だが、もうどうにもならない。
絶望しかない。
意識が遠のく。
「マリエ……」
急に、彼の耳に声が聞こえた。
「マリエの味がする……ねえ、マリエなの? マリエは、生きているの……?」
子供の声のような気がするが、その言葉の意味は分からない。
ぽたぽたと、何者かの涙が首筋に落ちてきた。
「マリエ……」
やがて、首に突き立てられていた何かが離れた。そのまま何者かが遠ざかっていく気配がする。
よくわからないが、命は助かったようだ。安心した途端、真一郎の意識は一気に深い眠りへと落ちていった。
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