3人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
2.吸血鬼の少年-2
*
通された部屋は、思っていたよりも小さなものだった。
この建物もとても大きく威厳ある造りだが、中はがらんとしている。普通なら、あちこちに豪華な絵や工芸品を飾っていそうなものだが、そういう類の物はいっさい無かった。
シャンデリアにはホコリが積もり、スカーレットはロウソクに火をともして廊下を歩いていた。
たどり着いたのは、二階の奥の方にある部屋。こぢんまりとした部屋の中に、木のイスと丸テーブルがある。他は本や筆記用具が少しある程度の、素朴な印象の部屋だった。
窓の外は群青色で、まもなく夜になるだろう。ロウソクの明かりひとつでは、部屋の中は薄暗い。
しかし、ジェムもスカーレットもそんなことはまったく気にせずイスに座った。
「さあ、どうぞ」
スカーレットが紅茶とカップケーキをテーブルに並べる。
「美味そうだな」
思わず真一郎が口に出すと、スカーレットが鋭い目を向けた。
「好きなだけ食べていいよ」
ジェムが言うと、スカーレットの視線が少し和らいだ。しかし、真一郎に釘を刺すのは忘れない。
「ジェムのために焼いたんだからね」
「わかってるよ」
「スカーレット、彼はお客さんなんだから。もっと親切にしてあげて」
「仕方ないわね、ジェムがそう言うなら……」
またしても、ジェムの言葉なら従うようだ。スカーレットの態度がころころ変わるのを見ながら、真一郎はカップケーキに手を伸ばした。
「……いただきます」
一応、先にそう言ってから、ケーキを口に運んだ。
甘味の少ない生地の中に、レーズンがたっぷり入っている。素朴な味が、真一郎にはかえって新鮮だった。手作りの料理を食べるのは、とても久しぶりな気がする。
「どう?」
スカーレットがちらりと真一郎を見た。
「美味い」
他にいい言葉が思いつかないので、単純にそう答えた。
「やっぱり、そうよね」
スカーレットは得意げだ。少しだけ笑顔を見せている。見慣れた千秋の顔が、重なって見えた。
(……やっぱり、少し千秋に似てるよな)
一方、ジェムは紅茶を飲んでいた。カップを持ち上げるその所作は、ずいぶん手慣れている。
「おいしい」
飲むと言うより味わうといったほうが正しいのだろう。ジェムの口から自然と言葉が出る。
「いつもありがとう。スカーレットがいてくれて、本当に助かるよ。今日は特にそう思った」
「えへへ……ありがとう」
スカーレットがはにかむ。少しだけ恥ずかしそうで、けれども、とてもうれしそうな顔だった。
「ねえ、カップケーキのほうはどう? 少しレシピを工夫してみたの。前よりおいしくなったかしら?」
ジェムはカップケーキをくるむ紙器を丁寧にはがして食べた。
「うん、おいしいよ。このくらいの甘さのほうが、僕は好きだな。レーズンも引き立つし」
「よかった……がんばって練習してきたかいがあったわ」
「練習なんて……そこまでしなくてもいいのに」
「だって、ジェムには一番おいしいものを食べてほしいもの……」
心なしか、スカーレットの頬が紅潮している。さっき図書館にいたときとは雰囲気が違う気がした。
真一郎にはそんな風に見えたが、ロウソクの明かりのせいかもしれない。
何気なく真一郎も紅茶を飲んだが、紅茶の味はよくわからなかった。紅茶にしてもカップケーキにしても、ジェムがそこまで大げさに誉める理由がわからない。
なぜか急に千秋の顔が浮かんだ。ずっと前のことだが、千秋が珍しく料理を作ったことがあった。味は至って普通だった。「おいしい?」と何度も聞いてくるので適当にうなずいていたら、なぜか千秋が不機嫌になった。翌日には何事もなかったような顔だったので、特に謝ったりはしなかったのだが。
(そういえば、そんなこともあったな……)
思い出しながら、二個目のケーキを食べる。空腹の身には、とてもありがたい味だった。
「真一郎。このあとのことだけど」
結局ほとんどのケーキを真一郎がたいらげたころ、ジェムから声をかけられた。
「いろいろと聞きたいこともあるから、何日かこの屋敷にいてくれるとうれしいんだけど、どうかな?
もちろん、無理にとは言わないけど」
ありがたい申し出に、真一郎は心の中で感謝した。これで当分の居場所は確保できる。
「他に行くところがなくて困ってたところなんだ。助かるよ……ええっと、ジェム、って呼んでいいのか?」
「うん、ジェムでいいよ。しばらくの間、よろしく、真一郎」
真一郎にそう言ってから、ジェムはちらっとスカーレットの方を見た。
「スカーレット。そういうことだから、よろしくね」
「この人をここに泊まらせるってこと? そんなに特別なお客さんなの?」
「それは、また後で話すよ」
ジェムがそれだけ答えると、彼女は少し不満そうな顔で黙り込んだ。
*
真一郎はベッドで横になっていた。
窓の外は真っ暗で何も見えない。本当の暗闇だ。
ジェムが案内してくれたこの部屋が、当分の真一郎の部屋らしい。ベッドと小さな机、イス、背の低い棚があるだけの部屋だが、今の真一郎には十分だ。
彼は枕元に置いた小さなランプを見た。オレンジ色の明かりで、部屋の中は少しだけ明るい。
このランプは小さなスイッチをひねると明かりがつくようになっている。
真一郎にはどう見ても電気で動いているようにしか見えないのだが、ジェムはこれを『魔法式ランプ』と呼んだ。
(魔法で明かりがつくランプなんて……冗談だろ……?)
ジェムが冗談を言っているのだと思いたかったが、結局のところ、本当なのだろう。
吸血鬼といい、魔法のランプといい、真一郎の『常識』を越えたことが多すぎる。しかし、現に目の前に存在している以上、嘘だ幻だとわめくのは、まったく無意味なことだった。彼は、いつの間にか『常識』がまったく役に立たない世界に来てしまったのだ。
(……俺はこれからどうなるんだ? どうすれば、今までの生活に戻れるんだ?)
考えるまでもない。
今までの生活には、戻れない。千秋の家には、もう戻れないのだから。
これからどうなるかも、わからない。この屋敷に泊めてもらえるのはありがたいが、それも一時しのぎだ。真一郎が、自分で何とかするしかない。何とかなるという見通しはないが。
(ああ……まったく、本当に、何なんだ……)
今までに何度わきあがったかわからない、やり場のない気持ち。
真一郎は乱暴に毛布をつかんでかぶり、目を閉じた。夕方に目覚めたばかりだというのに、彼はあっという間に眠りに落ちていく。
*
「……遅いわよ」
「待たせてごめん」
真一郎を客室に案内し、ジェムは自分の部屋に戻ってきた。
ここは、二階の一番奥にある部屋。ジェムの寝室だ。
窓は厚いカーテンに覆われ、外からは少しの光も入ってこない。小さな部屋だから、オレンジ色のランプひとつで事足りる。
天蓋のついたベッドと、本が山積みになった机。それだけで部屋の大部分を占めている。優雅な草花が描かれた壁紙は、その隙間にほんの少し見えるだけだ。
スカーレットはベッドに腰掛け、うつむいている。
「元気がないみたいだけど、疲れた?」
「……ううん」
スカーレットは首を横に振る。しかし、その顔にはいつもの明るさはない。
「ねえ、あの人のこと教えてよ。どうしてジェムは、あの人をそんなに特別に扱うの?」
ジェムはスカーレットの隣に腰掛けた。
「彼の名前は遠見真一郎……マリエの、子供だよ」
「マリエさんの……子供……?」
スカーレットがようやくジェムの顔を見た。
「僕も信じたくはなかったけど、彼ははっきりと言ったんだ。母親の名前はマリエだと」
「そんな……人違いじゃないの……?」
「でも、彼の血を吸ったとき、確かにマリエと似た味がしたんだ。きっと……間違いない」
ジェムが静かに言う。
「……マリエは、亡くなったらしい」
スカーレットは、ジェムの顔をじっと見た。ジェムは、泣いてはいなかった。
「嘘だって、思いたいよ……マリエはどこかで生きているって、ずっと信じてたのに」
「ジェム……」
「……彼の話だと、マリエが亡くなってから、二十年以上経っているらしいんだ」
ジェムが静かに話していることが、かえってスカーレットには心配だった。
きっと、泣きたいはずなのに。長い間待ち続けた人が二度と帰ってこないと知って、とても悲しいはずなのに。
「ジェム、あのね、私の前で泣いていいのよ。悲しいときは、思い切り泣くの。そうじゃないと、あとでもっと悲しくなるわ」
ジェムはうなずいたが、その表情は変わらない。
「ありがとう。でも、僕はやっぱり、まだ信じたくないんだ。もっとよく真一郎に話を聞いたら、もしかしたら……って思ってるんだよ」
「だから真一郎をここに泊めることにしたの?」
「そうだよ」
「そう……そうよね。まだそうと決めつけるのは、早いわよね」
スカーレットはできるだけ明るい声を上げた。ジェムが少しでもそこに望みをかけるのなら、自分も応援しなければ。
ジェムが、どれほどマリエのことを大切に想っているか。それはスカーレットもよく知っている。
知っているけれども、それでも聞かずにはいられなかった。
「ジェム……今でも、マリエさんのことが好き……?」
「もちろん」
(……私のことは、好き?)
それは聞けなかった。
返事を聞くのが、怖かった。
いつでもジェムはマリエのことをずっと想っていて、彼女の帰りを待っている。
それを知っているからこそ、言えなかった。
(私が、吸血鬼だったらよかったのに)
スカーレットは自分の手のひらを見た。それは、ごく普通の少女の手。しかし、本当のスカーレットの手は、こんな風ではないのだ。
人間でも吸血鬼でもない少女のことを、ジェムはどう思っているのだろう。
「……やっぱり、マリエさんの血がいいの?」
「スカーレット?」
急に話を振られて、ジェムは首を傾げた。
「私の血では、だめなの?」
「……そんなことないよ」
「じゃあ、私の血を吸ってくれる?」
「え?」
「いいでしょう……?」
スカーレットが胸元のボタンを開ける。ジェムは困惑していた。
「血を吸って欲しいの……? どうして……」
「いいから、早く」
「うん……」
スカーレットに促され、ジェムは戸惑いながらうなずいた。
一度立ち上がり、ジェムは机の上に置いた小箱を手に取る。繊細な薔薇が描かれた布貼りの箱だ。そこから砂糖菓子の包みを取り出し、スカーレットの手に乗せる。彼女はそれをすぐにかみ砕いた。
「……ねえ、早く」
スカーレットが腕を伸ばす。ジェムは彼女の隣、肩が触れ合うくらい近くに座りなおした。
「まだ、だめだよ。もう少しして、薬が効いてきてから」
「大丈夫よ。私、痛いのは慣れているわ」
「だめだよ……吸血される痛みっていうのは、転んだりする痛みとは全然違うんだ。痛みで失神する人があまりにも多いから、こういうしびれ薬や眠り薬が必要なんだよ」
「でも……」
そう言いかけるスカーレットの手に、ジェムの手が重なった。彼の目がスカーレットをまっすぐに見ていた。
「スカーレット。お願い、言うとおりにして。吸血させてくれるのはうれしいけど、できれば君に痛い思いをしてほしくないんだ」
「……わかったわ」
自然と、彼女の意識はジェムの手の温度のほうに向いた。冷たい手だ。しかし彼女には、その冷たさは少しも気にならなかった。
もっと彼と話したいことがたくさんある。この時間を大切にしなければ。そのはずなのに、言葉が出てこなかった。何を言うつもりだったのか、思い出せないのだ。
「……、ジェ、ム、……え、っと、わた、し……」
舌をうまく動かせない。スカーレットは不安になってジェムを見た。ジェムがうなずく。
「薬が効いてきたんだね」
「く、す、り、……これ、が……?」
頭が働かなくなっていく。これが、さっき口にしたしびれ薬の効果なのだろうか。
スカーレットは今、初めてこの薬の効果を知った。平気だと思っていたのに、とても怖くなった。
「スカーレット。少しだけ、辛抱してね……」
ジェムの手が、スカーレットをそっとベッドに横たえる。髪のリボンがほどけて、長い髪がベッドに広がった。
あおむけになったスカーレットの首筋に手が添えられるが、その冷たさを彼女は感じ取れなかった。
ジェムの牙が、スカーレットの首に触れる。
「……あ、……っ」
スカーレットの口から少しだけ声が漏れた。痛みはないが、牙が皮膚に食い込む感覚はある。
ぐっと深く押し込まれると、一気に血が溢れだした。
「っあ、あぁ……!」
ぞくりと体が震える。口から勝手に声が出ていた。
ケガをするのは慣れているが、こんなにたくさんの血を流すのは慣れていない。
スカーレットは力の入らない手でジェムの手に触れた。彼がやさしくその手を握った。
「……ごめんね。あと、もう少しだから……」
ささやく声は、いつもより大人びている気がした。
「……ジェム……。っ、あ、……!」
ジェムの舌が、血の溢れる傷口をなぞった。血を飲んでいるのだということが、スカーレットにもわかる。痛覚は働かないのに、肌の上を滑る舌の感触はよくわかった。
「……、ぁ……」
スカーレットは手のひらに力を込めた。わけもなく、体がずっと震えている。
いつの間にかジェムの牙と舌は離れ、スカーレットは寝台に体を沈めていた。放心状態の彼女は、ジェムが首筋に傷薬を塗っていたことにも気がつかなかった。
「しばらく動いてはいけないよ。吸血のあとは安静にしているんだ」
言われるまでもなく、スカーレットはもう体に力が入らない。返事もできないまま、ジェムの顔を見ていた。
「ごめん……怖かったよね」
スカーレットは返事をしたかったが、言葉が出てこなかった。
「今日はここでゆっくり休んで。夜明け前には、僕が森まで送るから」
返事の代わりに、スカーレットの寝息が聞こえた。
ジェムはしばらく彼女の顔を見つめていた。その表情は、穏やかなようで寂しげな何かを秘めている。
*
部屋の中はとても静かだった。
スカーレットの寝息だけが、わずかに聞こえてくる。
すでに深夜。
夜の闇は深く、ランプの明かりでもなお照らし切れないほどだ。
ジェムはイスに座り、机に向かった。ランプは机の上に置く。
心なしか、部屋の隅の暗闇が濃くなったように感じる。ジェムはぼんやりと暗闇に目を向けた。
ここは、ちょうど眠っているスカーレットに背中を向ける位置になる。
彼の口から出る名前はひとつ。
「マリエ……」
彼は山積みになった本の一番上、一冊の日記帳を手に取った。
ワイン色の表紙がついたこの日記帳は、ジェムにとって何より大切なもの。マリエと過ごした日々の思い出が記されている。
「マリエ」
いつもはその日記帳を開いて読むのが日課だった。マリエがいない寂しさを、少しでも埋めるために。
しかし、昨日も今日も表紙を開く気にはならなかった。真一郎の存在を知ったせいなのは、間違いない。
「マリエ……どうして……!」
急に、胸をかきむしりたくなるような衝動に襲われた。
真一郎はマリエの子供。あの日、マリエはこの屋敷を去って、人間の男のもとへと行ったのだ。
あの男、遠見永一郎(とおみ えいいちろう)のもとへ。
「嘘だ……」
ジェムは日記帳をつかむ手に力を込めた。厚い表紙は、こんなことでは折れも曲がりもしない。
「嘘だよ……!」
衝動的に、マリエを罵ろうとしてしまう。口から出かかった言葉を、ジェムはなんとか飲み込んだ。
本当は違う。大好きなマリエに、そんなことは言いたくない。
悪いのはあの男だ。マリエを惑わせ、ジェムと引き離した。もしマリエが本当に亡くなったのなら、それはあの男のせいに違いない。
「マリエ……生きているよね? 君は、きっとどこかで生きているんだよね?」
答える声はどこにもない。
胸の中にある、この激しい感覚は何なのだろう。鼓動が強く脈打って、痛みがあるような気すらしてくる。
「……っ、……」
ジェムは胸に手を当てた。
今まで、こんなことはなかった。
あの日までは、マリエのことを考えると、いつも穏やかであたたかい気持ちになった。
あの日からは、そこに言いようのない寂しさが加わった。それでも、マリエとの思い出があれば、ジェムはそれだけでよかったのだ。
それなのに、今のこの感情は何だろう。
マリエのことを思い出すだけで苦しい。どうしたらいいのかわからない衝動が胸の中で暴れ出す。
マリエとの思い出はいつだって綺麗に、大切にしまっておきたいのに。いっそ丸ごと投げて壊してしまいたい――――そんな思いに駆られて、ジェムは自分でもぞっとした。
「マリエ」
もう何度、彼女の名前を呼んだだろう。
寂しいとき、悲しいとき、苦しいとき、何度も何度も呼んだ。ずっと、彼女を求めていた。
「マリエ……!」
胸が痛い。激しい鼓動は、一向に収まってくれない。
まるで血が流れ出しているようだと、ジェムは思った。
最初のコメントを投稿しよう!