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3.母がいた場所-2
*
ジェムを寝室に運んだ後、真一郎は何もやることがなくなってしまった。あてもなく廊下を歩いていたが、結局、自分の部屋に戻った。
窓を開けると、朝の心地よい風が入ってくる。金木犀の香りがほんの少し混じった風だ。
真一郎は、ふと実家にいたときのことを思い出した。子供の頃、窓を開けたときに感じた風に似ている。
改めて中を見回すと、思っていたより素朴な部屋だった。床も壁も天井も、白木の木目を生かしたつくりになっている。家具はすべて木製で、チョコレートのように濃く深い色だ。長い月日を経たあたたかみが、真一郎には心地よかった。
寝台に横になり、無意識に首に手をやった。血はもう止まっているようだ。自分でも、よく平気でいられるなと、他人事のように感心してしまう。
時間が、ゆっくりと過ぎていく。
急に、子供の頃に戻ったような気分になった。
子供の頃、家の中の時間はとてもゆっくりと進んだ。棚の上や押入の中にある古いものたちが時間を重く、遅くさせているのだと思っていた。
あの頃の感覚に似ている。この場所には古いものがあふれていて、まるで時間が前に進んでいくのを阻んでいるかのようだ。
だが、真一郎にとって、それは不快ではない。古いものに囲まれてゆっくりと時間を重ねるというのは、それほど悪いものではないと思う。
だが、ジェムにとってはどうだろうか。
真一郎は、ジェムの様子を思い出した。
ジェムのただならぬ様子に最初はおののいたが、やがて子供のかんしゃくにしか見えなくなってきた。
マリエのことが、よほど辛かったのだろうか。しかし真一郎に八つ当たりされても、どうすることもできないのだ。できるのは、実家にいる父に会わせることだけ。しかし、今のジェムが父に会ったら、何をしでかすかわからない。よくよく注意しなければ。
考えながら、真一郎は自分がいつの間にか大人のような思考をしていることに気づいた。いつの間に、こんな大人の考えに変わったのだろう。ついこの間まで、ただの無力な子供だったような気がしたのに。
*
夕方になると、スカーレットがやってきた。
「ジェムは?」
玄関で真一郎の顔を見るなり、彼女が言う。
「寝てるはずだ。朝、具合が悪くなったんだよ」
「何ですって!」
彼女は真一郎を押し退ける勢いで玄関に入る。その腕を真一郎はあわててつかんだ。
「ちょっと待て。ゆっくり寝かせてやれよ。なんか、いろいろ悩んでるみたいだ」
「そう……」
スカーレットは急に大人しくなって、立ち止まった。
「ジェムってば、昨日私を送っていくなんて言うから……無理しなくていいのに……」
「あ……いや、たぶん違う」
「違う、って?」
「朝、ジェムからいろいろ聞いたんだ。この屋敷のこととか、ジェムの家族のこととか……あと、俺の母さんのこと」
「ああ、マリエさんのこと……やっぱり話したのね」
「ジェムは吸血鬼だから、あんまり太陽の光に当たらない方がいいんだよな? それが、話しているうちに夜が明けてて、明るいところに出た途端ジェムが倒れたんだよ」
真一郎には、心持ちスカーレットの顔色が悪くなったように見えた。
「倒れた……? どんな感じだったの?」
「たぶん立ちくらみがして、立っていられなかったんだろうな。それなのに助けはいらないとか言うし、俺が運ぼうとしたら、今度は怒ってかみついてくるし……」
「ジェムが? そんなこと、するわけないわ」
「そう言われてもな……実際かみつかれたんだよ。よくわからないんだが、よっぽど俺のことが気に食わないんだろうな……」
「ジェム……」
スカーレットは二階へ続く階段を見上げ、心配そうにつぶやいた。
「……なあ、こんなときに悪いんだけどさ」
「何?」
「俺、腹が減ってて……ここに何か食えるものってないのか?」
「はあ?」
心配そうな表情から一転、スカーレットはあきれた目で真一郎を見た。
「こんなときに何言ってるのよ」
「しょうがないだろ! 昨日の夜から何も食べてないんだ。ジェムは寝てるし、勝手なことするわけにもいかないだろ?」
「仕方ないわねえ……」
スカーレットはわざとらしくため息をついた。
「で、代わりに俺が掃除するのか……」
真一郎はモップを動かしながらぼやいた。
スカーレットは厨房に行った。これからパンケーキを焼くという。真一郎にモップとバケツを渡して、待っている間掃除をしているようにと伝えるのも忘れなかった。
(ほんと、広い家だよなあ……)
まだ玄関ホールも終わっていないが、真一郎はモップを投げ出したくなる気分だった。とても人の手で掃除していられる広さではない。あちこちにホコリが積もってしまうのも無理はないだろう。
こんなに広い家に、ジェムはひとりで住んでいるのだ。昼間に寝て、夜に起きて。夜中、ジェムはひとりこの屋敷の中で何を思って過ごすのだろう。真一郎には想像がつかない。
「ちょっと、全然進んでないじゃない!」
声に振り向くと、エプロン姿のスカーレットが来ていた。
「できたのか!?」
「できたけど、掃除が終わるまで食べさせてあげないから」
「無茶言うな……こんなに広い玄関、いくらやっても終わらないだろ」
「私は毎日やってるわ。ここと、廊下も少し」
「そ、そうなのか……よくやるな、こんなこと」
「ジェムの役に立ちたいだけよ。ほら、貸して」
スカーレットは真一郎の手からモップを取り上げると、結局、自分で床を拭き始めた。
*
掃除を終えて二階の部屋にやってくると、すでにテーブルの上にパンケーキと紅茶が用意してあった。
真一郎は昨日のことを思い出す。そういえば、この部屋でカップケーキを食べた。つい昨日のことなのに、ずっと昔のことのような気がしてしまう。
「……ここ、ジェムの部屋の近くだからね。うるさくしないでよ」
「わかってるよ」
夕方とはいえ、すでに部屋の中は薄暗い。スカーレットが小さなロウソクに火をつけて、テーブルの真ん中に置いた。
二人はそれぞれパンケーキを食べ始めた。パンケーキは三枚重ねになっていて、一番上にバターが乗っている。スカーレットは瓶入りのシロップをたっぷりかけていた。
「パンケーキ、冷めちゃったわね。せっかく焼いたのに」
「お前が掃除終わるまで食べさせないって言ったんだろ」
「そうよ。だって、真一郎がこんなにのろのろしてるなんて、思わなかったんだもの」
「お前なあ……」
言いながら、真一郎はふと既視感を覚えて言葉を止めた。以前、千秋と似たような会話をしたことがある気がする。
「どうしたの?」
「……なんか、千秋に似てるんだよな」
「千秋って誰?」
「あ、いや、なんでもない」
つい千秋の名前を出してしまったことに気づき、真一郎は首を振った。
「気になるじゃないの、教えてよ」
スカーレットはフォークを持つ手を止めて、身を乗り出してきた。
「た、ただの知り合いだよ」
「ふーん……」
彼女はまだ納得していないという顔だ。真一郎が紅茶を飲むのをいぶかしげに見ている。
「……わかった。恋人なのね? どうせ振られたんでしょうけど」
「う!? な、なんで分かるんだよ」
真一郎はあわてて紅茶を飲み込んだ。あやうくむせるところだった。
「なんとなくだけど」
「なんとなく、か……」
「さっきから真一郎がぼんやりしてるから、よっぽど気になる人なのかなって思ったのよ」
「別に、あいつのことばっかり考えてるわけじゃないんだが……」
確かに今日は考えごとばかりしている気がする。それは主にジェムの、そして母のことについてなのだが。
そう思いながら、二枚目のパンケーキを食べ終わる。
「……おい、焦げてるぞ」
三枚目のパンケーキは、表面は見事に真っ黒になっていた。
「べ、別にいいじゃない。それだって食べられるわよ」
「上に別のを重ねてごまかしたんだな」
「私に作らせておいてよく言うわね。言っておくけど、失敗したのはそれ一枚だけよ」
「失敗したのを俺によこすのか……」
文句を言うつもりだったのだが、つい笑ってしまう。
本当に千秋に似ている。まるで、あの家に戻ってきたような気分だ。何気ない会話をしながら食事をして。そんな当たり前の時間が、今は特別だと感じた。
やがて二人とも食べ終わり、スカーレットは食器を持って部屋のドアを開けた。これからジェムの様子を見に行くという。
「……ねえ」
「ん?」
「私が本当は狼だって話、ジェムから聞いた?」
「ああ、聞いた」
「他に何か、私のこと言ってた?」
「他は、森に住んでるとか、狼っていっても人間と変わらないとか、そのくらいだったな」
「そ、そう……ありがとう、聞きたかったのはそれだけ」
スカーレットはそそくさと部屋を出ていった。真一郎はそれを見送ってから、自分の部屋に戻ることにした。
*
コンコン、と扉を叩く。
「ジェム? 起きてる?」
「……うん。入っていいよ」
少し遅れて、ジェムの声が聞こえた。スカーレットは少しだけほっとして、部屋に入った。
「具合はどう?」
ランプの明かりが、室内をオレンジ色に照らしている。まだ夕方のはずだが、ここだけ夜更けが訪れたかのようだ。
「うん、もう大丈夫だよ」
ジェムはベッドから上半身だけを起こして、スカーレットを見ていた。ランプの明かりから遠いせいか、顔色はよくわからない。
「本当に大丈夫? 真一郎から話を聞いてびっくりしたのよ。まだ具合が悪いなら、寝ていて」
「心配させてごめん。でも、もう大丈夫だから」
「そう……? でも、無理しないでね」
スカーレットはジェムの顔を見ながら、持っていた盆を机の上に置いた。
「紅茶とパンケーキを持ってきたけど、食べられそう?」
ジェムは少し返答に迷っているようだった。
「……今は、甘いものより血がほしいな。ねえ、スカーレット……いい、かな?」
ためらいがちに尋ねるジェムに、スカーレットはうなずいた。意識して笑顔を作る。
「私でよければ、いつだっていいわ」
「……ありがとう」
昨夜と同じように、スカーレットは薬入りの砂糖菓子を一つかみ砕いた。
「スカーレット、こっちに……」
ジェムに手招きされて寝台のそばに行く。
彼の腕がスカーレットの体をぐっと引き寄せ、気がつくとスカーレットは寝台の上にいた。
(あ……っ)
急に、鼓動が早くなる。
ジェムの腕が、彼女をふわりと包んでいる。二人は寝台の上で横向きに向かい合っていた。
「……ちょっと、驚いちゃった。ジェムって、意外と力持ちなのね……」
心臓の音をごまかすように、スカーレットは思いついたことを口に出した。
「そんなに、意外かな」
ジェムは不思議そうな目でスカーレットの目を見つめた。
「そ、そうよ……」
スカーレットは目をそらせなかった。
毎日会っていても、こんなにすぐ近くで見つめ合うのは初めてだ。
ジェムが、自分だけを見ている。
もっと彼に触れたくて指を伸ばそうとするが、すでに体がうまく動かない。
「……、も、う、薬、が……」
声がうまく出ないことがもどかしい。もっと、ほかに伝えたいことがあるのに。
薬が効いてきたことに気づき、ジェムはうなずいた。
「ごめんね、できるだけ痛くないようにするから……」
謝らなくてもいいのに、とスカーレットは思う。しかし、今の彼女にはそれを伝えられない。
ジェムの冷たい手が、彼女の首に触れた。牙が近づく気配に、スカーレットはぎゅっと目をつぶる。
「……っ、ぅ」
彼女の口から、小さく息がもれた。痛みはない。
首筋から、少しだけ血が流れる感覚がある。ジェムの舌がそれを舐め取った。
彼はそれ以上牙を押し込むことはせず、にじみだす血をずっと吸い取っている。
「っぁ、ジェム……」
遠慮がちに、皮膚の浅いところばかりを舌が行き交う。スカーレットは力の入らない指で、ジェムの袖を少し引いた。
「ごめん、痛かった……?」
一度牙を離したジェムは、心配そうにスカーレットを見つめた。
「ううん、平気……。心配、しなくていいから……」
ジェムが元気になってくれるなら、もっとたくさん血を吸ってほしい。痛くないから。そんなに心配しないで。
それを伝えたいのに、今のスカーレットにはうまく言葉にできない。
「……ありがとう。でも十分だよ」
ジェムはそれだけ言うと、再びスカーレットの首筋に舌を這わせた。今度は少しだけ牙を進めて、また血がにじみ出たのを吸い出す。昨夜のように深く牙を沈めはしなかった。
(もっといっぱい、吸ったっていいのに……)
昨夜怖いと感じたのも忘れて、スカーレットはそんなことを思った。本当はもっと、ジェムの役に立ちたいのだ。
「んっ……」
仕上げのように、ジェムが傷口を舐め上げた。そして舌と牙が離れていく。
「ありがとう、スカーレット。怖くなかった?」
「だ、大丈夫……」
ジェムの舌の感覚を名残惜しく思い、スカーレットは少し赤くなって答えた。
「今、薬を塗るから、ちょっと待ってね」
机の上にある薬を取るために、体を起こそうとするジェム。その袖を、スカーレットは弱くつかんでいた。
「……いい」
彼女は首を横に振った。
「いい、って……」
「傷、そのままでいいから」
「だめだよ。傷痕が残ったりするよ」
「……いいの」
スカーレットは寝台に体を預けて目を閉じた。まだ薬が抜けきっていない。このまま、ずっと横になっていたかった。
「うん、わかった……薬を塗るのはあとにしよう」
(ジェム、そういうことじゃないの……)
意識が落ちかける中、スカーレットは思った。
(私、ずっとこのままでいたいの……)
*
スカーレットが眠りに落ちたあと、ジェムはそっと寝台を降りた。
袖をつかむスカーレットの指を、そっと開く。その動きでも彼女は目覚めない。
机の上に置いた薬の瓶を取ってスカーレットの首につける。瓶を元通りにおくと、ジェムは一瞬スカーレットを振り返り、部屋を出た。
足音をたてないように、扉の音もたてないように、細心の注意を払って移動する。
夜の闇とかすかな月明かりが、廊下の窓を通してしのびこんでいた。
月の光を愛した先祖が作り上げたという、月光の降り注ぐ廊下。しかし、昼間は太陽の光が容赦なく降り注ぐのが難点だ。
ジェムは廊下の窓を眺めながら歩き、ある部屋の前で立ち止まった。ドアをノックしようとして、少しためらう。風に乗って、金木犀の香りがした。彼は、部屋の窓を開けているのだろう。
(真一郎……)
本当は、すぐにでもこの部屋に入り、真一郎に実家の場所を聞くつもりだった。しかし今、ジェムはこのドアを叩くことができずにいた。かといって引き返すこともできず、ドアの前で立ち尽くしてしまう。
真一郎はジェムの気配に気づかないのだろう、内側からドアが開くことはない。
長い廊下。
月の光。
ほんのわずかな風の音。
金木犀の香り。
静寂。
ジェムにとっては、見慣れた夜。
それがなぜか今、彼の胸の中に何かを投げかける。
ジェムはドアノブに手をかけた。金属でできたそれは、ひんやりと冷たい。乱暴に開けてしまいたい衝動と、開けるのが怖いと恐れる気持ちが混ざりあって、ジェムはしばらく、ドアノブをつかんだまま動けなかった。
そのまま、長い時間が流れる。
けれども、やがて、ジェムはその手を離した。そして、足音もたてることなく自分の部屋へと戻っていく。部屋のベッドではスカーレットが眠っていて、彼は一晩中机に向かっていた。
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