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5.鍵を開ける時
ジェムは目を覚ました。
一瞬、どこまでが夢で、どこからが現実なのかわからなくなった。
体を起こして、頭を整理する。
ジェムはイスに座ったまま、机に身を預けるようにして眠っていた。昨夜、考えごとをしているうちに眠ってしまったのだ。
そう、あれは夢だ。昔の夢。マリエがいなくなり、スカーレットと出会った、あの日の夢。今から二十年以上も前のことだ。
ジェム自身も、半分忘れかけていた。マリエは、突然いなくなったのだと思っていた。だが、違った。
そのことに気づいていたはずなのに、ジェムはそれを認めたくなかった。そして、やさしい思い出に閉じこもった。
この胸の痛みも、本当は、ずっと前から知っていたのだ。ずっと、ずっと、思い出したくないと思っていたけれども。
「マリエ……僕は……」
ジェムは腕を伸ばし、机の上を探る。大量の本にうずもれるようにして、質素な木箱があった。箱の中から、ひとつの鍵を取り出す。細やかな彫刻が施された鍵だ。
ジェムはしばらくその鍵を見つめ、意を決して部屋を出た。向かうのは隣の部屋。
二十年以上扉の閉ざされた、マリエの部屋だ。
冷たいドアノブに触れ、鍵穴に鍵を差し込む。
ジェムの脳裏に、さまざまな記憶がよぎった。
あの日、庭で倒れていたところをスカーレットに助けられた。彼女は数日間、ジェムの看病のためにずっとそばにいた。その後も毎日屋敷にやってきては、掃除や料理などをやってくれている。
ジェムはあれから、マリエをずっと探していた。屋敷の隅から隅まで歩き回る日々だった。そして、使わない部屋には鍵をかけたのだ。それは、マリエと過ごした思い出の場所を閉ざしたのと同じだった。
マリエの寝室には、真っ先に鍵をかけた。向き合うのが怖かったのだ。彼女が隠し続けた真実に――――。
ゆっくりと鍵を回す。
かちゃり、と静かな音がした。
ジェムは静かに扉を開け、部屋に入った。足を踏み入れた瞬間、きゅっと胸が苦しくなる。それでも進む。
部屋の構造は、ジェムの部屋とほぼ同じだ。寝台や机、壁紙などもおそろいになっている。けれども、マリエの匂いが残るこの部屋は、やはりジェムのものとはまったく違っていた。
ジェムは机に近づく。ほどよく整頓された机の上には、指輪を入れた丸い箱や香水瓶などが置かれていた。
それらをひととおり眺め、ジェムは引き出しから日記帳を取り出した。ジェムのものとおそろいの、ワイン色の表紙がついている。その厚い表紙をそっと開いた。
「マリエ」
ジェムは無意識に、その名を呼んだ。
日記帳には彼女らしい丁寧な字が並んでいる。彼女のあのほほえみが、目に浮かんだ。
ぱらぱらとページをめくり、ジェムは文字が書かれた最後のページを探した。
そして見つける。
マリエが書いた、最後のページ。
遠見永一郎の名前。
「……っっ!」
胸の中に、言葉にできない何かがわきががる。
覚悟はしていたが、やはり直視すると胸が苦しい。
マリエがいなくなった数日後、ジェムはこの日記帳を見つけた。そこに書かれた事実に、たえられなかった。そして鍵をかけ、忘れ去ったのだ。
けれども、完全に忘れきることはできなかったようだ。遠見永一郎。その名前は強く脳裏に焼き付いて、ジェムの頭から離れることはなかった。
遠見真一郎という青年が目の前に現れたとき、ジェムの気持ちは大きく揺れた。今思えば、無意識に感じ取っていたかもしれない。マリエの真実と向き合わなければならないときが来たことを。
頭がずきんと痛むような感覚に耐えながら、ジェムは日記帳に目を走らせた。
最後のページから数ヶ月分さかのぼり、順に読んでいく。
吐き気のような感覚に襲われ、読むのをやめてしまおうかと思う弱気な自分を、必死に押さえつける。
(僕は……向き合わなきゃならないんだ……)
左手でページをめくりながら、右手はずっと胸をおさえていた。ときどき、呼吸を整えようと息をついた。おそろしくなるほど、鼓動が速い。
まばたきも忘れて、食い入るように文字を読んだ。一文字一文字、どれひとつ読み漏らすことはしまいと。
そこに書いてあった内容は、おおむねジェムが予感していたことだった。
マリエは人間の街に出かけたとき、あの青年に出会った。最初は、進んで吸血させてくれる親切な人間という程度の関係だった。
それが変わったのは、青年から好意を告げられたとき。マリエは、はじめは拒んだ。青年のことが嫌いなわけではないが、人間と吸血鬼では、住む世界が違いすぎる。だから、これ以上親しくなることはできないと感じていた。
だが、月日は流れ、マリエの心は変わり始めていた。青年と何度も会い、言葉を交わすうちに、今までに感じたことのない感情が芽生えていたからだ。
吸血鬼として変わらない日々を過ごしながら、マリエは思ってしまう。青年と、もっと、ずっと一緒にいたいと。
彼も、きっとそう思っていたのだろう。別れ際、引き留められることが増えた。本当は、マリエもずっと青年のそばにいたかった。吸血という名目でしか彼に会いに来ることができないのが、もどかしかった。
そして、季節が秋へと変わりはじめた頃。そのページには、緊張した字が細かく書きこまれていた。
青年は、金木犀が香る頃に街を去るのだと言った。急にある女性との縁談が決まり、遠い街に行かなければならないのだという。
マリエの魔法があれば、遠い街にも行くことはできる。しかし、青年が結婚してしまうのなら、もう会うことは難しいだろう。
青年は、遠い街の女性よりもマリエを求めた。
だが、マリエにはジェムがいるのだ。
あの子をひとりにはできない。
そんな言葉が、日記帳に何回も書かれていた。はじめのうちは、しっかりと整った字で。だが、だんだんと字は崩れ、やがてジェムの名前は乱雑な走り書きになった。そのページを見たジェムは、言葉を失った。胸をぎゅっとおさえて、必死に呼吸を整える。
しかし、苦悩の言葉はだんだんと減っていった。その代わりに、青年を求める激しい言葉ばかりが書かれるようになった。もう、ジェムの名前はどこにも見当たらない。ページをめくっても、あるのは永一郎の名前だけ。
そしてついに、最後のページだった。彼女は、金木犀が香り始めた夜に、永一郎のもとへ行く決意をしたのだ。
どんな罰を受けることになっても構わない。
私は、すべてを捨てて永一郎さんと生きていく。
きっぱりとした決意の文字で日記帳は終わっていた。
「マリエ……」
ジェムは日記帳を閉じて、胸に抱いた。胸が苦しい。上を向いて、ゆっくりと呼吸を整えていく。天井がにじんで見えた。
苦しさは消えないが、ジェムはたしかに日記帳を読み終えた。ずっと目をそらしていたものに、やっと向き合えた。
しかし、まだ足りない。
真一郎の実家に、永一郎がいるという。彼と向き合わないことには、まだ終われない。
たえられるだろうか、自分に。マリエを連れていった男に会って。マリエが亡くなったという事実を直視して。そのとき、自分はいったいどうなってしまうのだろう。不安は消えない。本当は、こわい。でも、進みたいのだ。マリエを待ち続けた長い長い時間から、一歩でも先へ。そのチャンスは、きっと今しかない。
「行こう。僕は、前に進むんだ」
気持ちがひとつに固まると、胸の痛みは不思議とやわらいだ。
ジェムは日記帳を元の場所に戻し、マリエの寝室を出た。鍵は、かけなかった。
*
身支度を整えたジェムがいつもの部屋にやってくると、すでに真一郎とスカーレットがいた。焼き立てのクッキーと紅茶の香りがする。
「ジェム! もう起きて大丈夫なの?」
カップに紅茶を注いでいたスカーレットが、あわてて顔を上げた。
「うん。スカーレットこそ平気? 昨日はすごく疲れてたように見えたけど」
ジェムの言葉に、スカーレットは急に顔を赤くする。
「えっ、あ……大丈夫よ。寝て起きたらすっかり元気になっちゃった」
「そっか、よかった……」
昨日、スカーレットは吸血のあとに眠ってしまい、夜明け前にひとりで森へ帰ったようだ。本当はジェムが送っていきたかったのだが、その前に机で眠ってしまった。
「今日はクッキーを焼いてみたの。食べられそう?」
「うん。いただくよ」
ジェムはスカーレットの隣に座り、クッキーをひとつ口に入れた。
「ど、どう……?」
スカーレットがおそるおそる尋ねる。
「おいしいよ。中に入っているのは、ミントの葉っぱかな」
「そうよ。森からミントを持ってきて、初めて作ってみたの」
「そうだったんだ。ありがとう」
ジェムが素直にほめると、スカーレットはまた少し赤くなって、うつむいた。
真一郎は何も言わずに、二人の様子をじっと見ている。もちろんその間もクッキーを取る手は止まらない。すでに彼は大皿に盛られたクッキーの半分を食べ終えていた。
「ちょっと、ジェムの分も残しておいてよね」
「ちゃんと残してあるだろ」
「だからって食べ過ぎ! もうっ、これはジェムのために焼いたんだからね」
「わかってる」
「わかってないわ」
スカーレットと真一郎はけんかをしながらも、その言葉はどこか親しげだ。ジェムはそれに気づいて、少しほっとした。
あたたかい紅茶を一杯飲み終えてから、ジェムは真一郎を見据えた。つとめて落ち着いた声で切り出す。
「真一郎。昨日はごめん……。けがをさせてしまったし、いやなことも言ってしまったと思う」
真一郎は困ったという顔でジェムを見た。
「それは別に……俺はもういいんだが……」
言いにくそうに言葉を続ける。
「俺が出てったほうがいいなら、そうするか……? 母さんのこともあるし……あんまり俺の顔見たくないんじゃないのか?」
真一郎は困惑が隠せないという顔だが、ジェムのことを気遣ってくれてもいる。ジェムは改めて自分がやったことの幼稚さを悔やんだ。
「ごめん。昨日は、急にカッとなって……本当は、真一郎を追い出したいわけじゃない。僕はマリエの本当のことを知りたいんだ」
「本当のこと……」
真一郎はまばたきも忘れ、ジェムの目を見ていた。昨日とは違うのだと、すぐにわかった。
「……ずっと、知るのがこわかった。マリエが亡くなったと認めたくなかったし、君がマリエの子供だとわかって疎ましかった。でも、僕は……本当は、ずっと前から気づいていたんだ。ずっと、知らないふりをしていただけで」
ジェムはひとりごとのようにそれを話すと、真一郎のほうに身を乗り出した。
「君の実家を教えて」
「……本当に、それでいいのか?」
「うん。僕は、永一郎に会って、本当のことを知りたい。マリエが亡くなったのなら、そのときのことを永一郎は知っているはずだ」
「親父に何かしたら、さすがに許さないからな」
「そんなことはしないよ」
真一郎は少しの間考え、仕方ないとばかりに首を振った。
「わかったよ。ただし、俺も一緒に行く。それでいいだろ?」
「うん、ありがとう」
「待ってよ。私も連れていって」
話がまとまりかけたとき、スカーレットが声を上げた。
「スカーレット?」
ジェムが驚いて隣を見ると、スカーレットがジェムの腕にそっと触れた。
「私も行きたい。ジェムのことが心配だわ」
「大丈夫だよ。スカーレットは留守番をお願い」
「ううん、絶対について行くから」
ジェムは困った顔で真一郎を見た。
「まあ、いいんじゃないのか。うるさくなければ」
「うるさくなんて、しないわよ」
スカーレットに軽くにらまれ、真一郎も困った顔になった。彼女は相変わらずだ。
「それじゃあ、すぐに行こう。ついてきて」
ジェムはすぐに席を立ち、歩き始めた。向かうのは玄関ホール。あの日と同じように、魔法で人間の街へと飛ぶのだ。
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