第三話 朱柳県の県城にて

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第三話 朱柳県の県城にて

 毛翠(もうすい)と共に小屋に戻り床についた楊鷹(ようおう)であったが、流石に体の疲れが勝ったようであった。  はっと気がついた時には、小窓から朝日が差し込んできていた。きらきらしい窓の外を半目で眺めつつ、楊鷹は頭をかいた。すっかり寝入っていたらしい。一時は寝付けなくて困っていたのだが、あれはなんだったのかと思うほど、本当にぐっすりと。寝ざめは悪くない。悪くはないが、ちらりと脇を見やった瞬間、重しが圧しかかったような気分になる。すやすやと穏やかな寝息を立てる赤子の姿。かわいい顔つきだが、癒しを与えてくれる存在とはほど遠い。じっと眺めているとなんとも言えないもやもやとした感情がくすぶり始める。つい、頬をつねってやりたい衝動に駆られたので、楊鷹は焦って視線を反対側に転じた。  簡素な寝台は空っぽだった。そこには老爺(ろうや)が眠っていたはずだが、姿がない。  ふいに(かす)かな物音が聞こえた。音は、衝立というには物足りない板切れの向こうから聞こえてくる。それから、ふわりと漂う墨の香。  起き上がって板切れの向こうを覗いてみれば、老爺が卓について何やら書き物をしていた。卓上には、紙束や巻物、不思議な形をした盤のような板が並んでいる。老爺は真剣な顔つきでそれらを見つめながら、何事かを紙に書き留めている。声をかけるのがはばかられた、のだが。 「おはようございます」  老爺がうつむいたまま言った。楊鷹は面食らってしまって、すぐさま返す言葉が出て来ない。  老爺がちらと視線を上げたところでやっと、「おはようございます」と返すことができた。 「何をしているか、気になりますかな?」  顔を上げて老爺が微笑む。楊鷹はぎこちなく頷いた。 「占いをしているのですよ」 「占い、ですか」  楊鷹が言葉をそのまま繰り返せば、老爺はそっと筆をおいて手を組んだ。 「はい。占いです。まぁ、趣味みたいなものですよ」  楊鷹は再度卓上を見た。恐らくそこに並んでいるのは占いのための道具なのだろう。楊鷹は占いには全く詳しくないので、あの盤のような物体をどう使うのかも、何を書いていたのかもさっぱり分からないが。  老爺は優雅に髭をなでながら、柔らかい笑みを浮かべて楊鷹を見つめてくる。その視線が初めて会った時と同じように、どこか鋭く感じられた。ぴり、と寝起きの楊鷹の心が引き締まる。 「よかったら、貴方のことも占って差し上げましょうか?」  老爺の提案に、楊鷹は答えに詰まる。頭の中によぎるのは、今もまだ眠っている毛翠の姿。そして思う。 ((ろく)な結果が出てくる訳がない)  それは予感ではなく確信であった。 「いえ、結構です」  楊鷹はきっぱりと断った。しかし、老爺は嫌な顔はしなかった。それどころか、朗らかに笑いだす。 「賢明な判断ですな。私の占いは、いつも外れますから」  楊鷹の思考が止まる。老爺を見る。彼はやはりにこにこと親しみのある笑顔だ。止まった思考が動き出す。ぐるぐると目まぐるしく。  自分から申し出ておいて、その物言いはないだろう。謙遜でもしているのだろうか。ならば、「そんなことはない」とよく分からないままにも言っておくのがいいのか。それともさては、冗談なのだろうか。そうならば、「またまた御冗談を」と、笑うべきか。それとも他に、もっと気の利いた言葉がありそうな気もするが、出て来ない。  楊鷹の頭の中は堂々巡りで、表情を作ることすらできないでいた。すると突然、どうしてか、老爺の方が吹き出した。「失礼」と一言、老爺は顔を逸らして口元を抑える。だが、ほっそりとした肩は明らかに震えている。  どこに笑う要素があったのか、楊鷹には見当もつかない。ますますどうしたらよいか戸惑うばかりで、ひたすらぼんやりしているしかなかった。その間に、老爺の笑いは深まるばかりであった。今や、体を折って、手の平で卓を叩いている。 「自分で勧めておきながら、外れるからやめた方がいいって、一体何様……」  ひぃひぃという苦しそうな息遣いの合間から、そんな言葉が聞こえてきた。  もれ聞こえた老爺の言葉は最もなのだが、しかし本当に何がそんなに面白いのだろうか。全く意味が分からな過ぎて、楊鷹は徐々に不安になってきてしまった。  笑いを抑えようとしつつも出来ていない老爺を眺めることしばし。これまた唐突に老爺はぱっと顔を上げた。いきなりの出来事に楊鷹はどきりとしてしまった。反射的に身構えてしまう。  笑いの名残か、老爺の顔のしわはだいぶ濃く見えた。くしゃくしゃとした表情のまま、彼は口を開く。 「まぁ、それはそうとして、貴方に渡すものがありましてね」  脈絡なく話題を変えられて、楊鷹ははたまた面食らった。昨夜の時点で不思議な人物だと感じたが、さらにその気持ちが強まった。不思議、というより変人に傾きつつある。  老爺は卓上に散らばっていた物を隅によけると、すぐ隣の椅子をまさぐる。今度は何をするというのだろうか。 「今朝、着替えの服を探していましたら、ちょうどよいのが見つかったんですよ」  そう言いながら、老爺は青色の衣を掲げてみせた。楊鷹はその衣をまじまじと見つめた。  不思議な人物であるが、彼はやはり親切であることに変わりなかった。 「ありがとうございます」  楊鷹が頭を下げると、老爺は衣を手にして立ち上がる。 「貴方の体には少し小さいと思うのですが、その着物よりは良いでしょう。街まで出たら、売るなり交換なりして新しい物に代えてください」  わざわざそんな言葉まで添えて、老爺は楊鷹に衣を差し出した。楊鷹が両手でそれを受け取ると、ひょいと老爺は体を翻す。 「さて、朝食にしましょうか。今持ってきますね」 「いえ、そこまでしていただく訳にはいきません。この着物だけで十分ですので」  楊鷹は口早に言った。だが、老爺は取り合わない。 「遠慮しないでください。たくさん作り過ぎてしまったんです」  そう言いながら、老爺は軽やかな足取りで小屋から出て行ってしまった。その後姿を、楊鷹は呆気に取られて見送った。  ぽつねんと、一人置いていかれた楊鷹。手の中を見やれば、青い衣。楊鷹は小屋の入口に向かって、今一度頭を下げた。本当に、あの老爺には感謝してもしつくせない。ここのところ、人からぞんざいに扱われることが多かったので、余計に優しさが身に染みてくる。  楊鷹は慎重な手つきで青色の衣を広げた。飾り気のない質素な袍であった。古いものなのか、(すそ)の辺りにほつれや汚れが見て取れる。しかし、素材は絹であろうか。やたらと(なめ)らかな肌触りである。早速着替えてみると、果して老爺の言葉の通り肩のあたりが少しきつい。とは言え、着れなくはないし、丈も極端に短くはないので一時しのぎとしては十分だ。とりあえず、これで不審者は脱出できただろう。  楊鷹が着替えを済ましたところで、老爺が湯気の立つ椀を乗せた盆を手に小屋に戻ってきた。 「お子さんは起こ……す必要はなさそうですね」  小屋に入って来るなり、老爺が言う。振り返ってみれば、寝床ですやすや寝息を立てていたはずの毛翠が衝立から顔を覗かせていた。瞼は重たく、未だ眠たそうだが、やたらと鼻をひくつかせている。もごもごと、小さな口が動く。それに気がついた楊鷹は、素早く動く。 「いいにお……」  開いた愛らしい口を、楊鷹はふさいだ。そのまま、ごまかすように毛翠を抱き上げる。 「はらがへっ……」  耳元でむにゃむにゃと小さな声が聞こえたので、少しばかり毛翠の頭を肩に押しつけた。そしてささやく。 「黙っていろ」  不満なのかなんなのか、毛翠が強く息を吐きだすのを感じた。だが、それは無視である。断固無視である。毛翠を強く抱きしめたまま、楊鷹は立ち上って振り向く。器を卓に置く老爺と目が合った。老爺がにこりと笑う。楊鷹も無理くり笑う。頬が引きつるのを感じる。  今後、こんなやり取りを何度する羽目になるのだろう。そんな考えがよぎった瞬間、まだ朝だというのにどっと疲れが押し寄せた。
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