第三話 朱柳県の県城にて

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 さっさと藍耀海(らんようかい)に行かなければ、心身が持たない。  だから、今やるべきことは一刻も早く朱柳県(しゅりゅうけん)の県城にたどり着くことである。まずは、そこで旅の準備を整える必要があった。  必要な物は衣服、それから追加の水や食料、できれば何か武器のような物もほしいところだが、それだけの金があるかどうか。時間が惜しいので悠長にはしていられない。と言うよりも、のんびり準備をするのは無理な話だった。県城に長居はできない。楊鷹は罪人である。しかも、おそらく余計にことがこじれてしまった。  ちらりと腕の中の赤子を(うかが)う。間の悪いことに、ぱっと毛翠が顔を上向けた。視線が合ってしまう。 「どうした?」 「いや……」  先ほど話をしたくないように言った手前、楊鷹は言いよどんだ。だが、気を取り直して口を開く。いくつか、聞いておきたいことがあった。 「昨日の少女だが、あれで死んでいないと言ったな」 「ああ。死んでない」  何度聞いても、すんなりと飲み込めない言葉である。だが、どうもそれは本当らしい。  楊鷹はさらに尋ねた。 「では、どうなった?」 「仲間に助けられたと思う」 「……ということは、少なくとも少女はあの場には残らなかったと」 「うむ。あそこには留まらなかったと思うぞ。あの後、おかしな気配がしただろう? 仲間の神仙が近づいてきていた証拠だ」 「少女が斬った薛用(せつよう)……男の死体には何かしたと思うか?」 「それは、分からんな……。どこかに隠したかもしれんし、そのままかもしれん」  楊鷹は歯噛みした。思った通り、自身の立場は悪い方向に傾いた可能性が高い。  もしも、薛用の死体しか残らなかったとなれば、楊鷹が護送役人を殺して逃亡した、という図式が易々と成り立ってしまう。逃げた董把(とうは)の行動にもよるが、果してあの気弱な護送役人の証言がどこまで機能するかは疑わしい。もしも、都の役人が出張って来たら、余計にだ。  毛翠のいう仲間とやらが、薛用の遺体も処理したのだろうか。例えば、あの場から消し去るなど。もしそうであったら幸いだが、神仙などという訳の分からない存在に対して期待は抱けない。  逃げるしかないとは思っていたが、これはますます捕まってはならない状況になってしまった。余分な罪状、しかもまたもや冤罪が重なって、今度こそ死罪になってしまう。頬の刺青(いれずみ)は、老爺の助言通り膏薬(こうやく)を貼って隠した。だが、(りん)では見ない外貌(がいぼう)、人相書きが出回ればあっさりと正体はばれるに違いない。かなり慎重に行動しなければ。  しかし、問題はそれだけではなかった。「仲間の神仙」と言う言葉が、引っかかるどころか心に食い込む。追われているのは、楊鷹だけではないのだ。 「……あのような追っ手は、まだ来るのか?」 「分らんな。だが、昨日の様子では来ないとは言えなさそうだ」 「すまんの」と毛翠が乾いた笑いを浮かべる。そんな毛翠を、楊鷹はじろりとねめつけた。 「……本当に、何をしたんだ」 「いや、まぁ、ちょっと勝手をしたつけが回ってきたというかなんというか……」  もごもごと口ごもる毛翠。視線まで泳がせて、なんとも言い辛そうな様子である。それでも、容赦なく楊鷹は赤子をにらみ続ける。すると突然、負けじとばかりに毛翠は楊鷹を見返してきた。指まで突き付けてくる。 「お前こそ、何をしたのか詳しく教えてくれなかったではないか! お互い様だろう!」  今度は楊鷹が言葉に詰まる。足まで止まる。どうしてか、のどかに鳴いていた椋鳥(むくどり)までも黙り込む。  静寂の山中、毛翠とにらみ合うことしばし。楊鷹はふいと前方に視線を戻すと、何も言わぬまま再び足を動かし始めた。  それからというもの、楊鷹はひたすら歩いた。毛翠が声をかけてきても一切取り合わず、普通の人間よりもずっと強靭な肉体を黙々と動かし続けた。  やがて街道に出ると、旅人やら物売りなどの人影がぽつぽつと現れはじめた。その頃には毛翠はすっかり諦めたようで、特段楊鷹を困らせる行動はせずに静かにしていた。  その結果、楊鷹たちは予定通り昼前に朱柳県の県城に到着したのだった。
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