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楊鷹はちらと振り返った。毛翠が体を横に倒して、じっと前方を見つめている。前方とはつまり通りの向かい、特に、倒れた父親に付き添う女性を見つめていた。
「お前がその娘か?」
清の声が響く。相変わらずの横柄な口調である。楊鷹は正面に視線を戻した。
立ち去る気がなくなったのか、清がゆったりとした足取りで親子の元まで引き返してきた。清は女性を一心に見つめている。女性もしずしずと清を見上げた。
間もなく、清は顎をなでながら口を開いた。
「よし分かった。頼みを聞いてやろう。娘の護衛をしてやるよ」
清が言った。先程、言い争っていたのはなんだったのか。まるっきり打って変わった態度である。
女性は何も言わずにひたすら清の顔を見ている。父親の方も顔を上げたが、やはり黙ったままだ。当然だ。さっきまで、清はあれだけ突っぱねていたのだから、戸惑うに決まっている。
そんな二人を無視して、清はどんどん話を進めてゆく。
「俺の家に来ればいい。そうすれば、賊どもにさらわれる心配もないからな」
にやついた笑みを浮かべながら、うわついた口調の清である。どこかいかがわしい臭いを感じるのは決して楊鷹の気のせいではないだろう。楊鷹は憮然とした心持ちになり、うつむいて目を閉じた。
「……お心遣いありがとうござます。ですが、大変お忙しいようですし、どうかお構いなく」
そう答える女性の声が聞こえた。その後に「ご無理はなさらずに。我々でどうにかいたします」と柔らかい父親の声が続く。
「なんだ? さっきまではあんなに必死になって頼みこんできたくせに。断るとは何様だ!」
清が声を荒らげた。楊鷹が目を開ければ、視界に飛び込んできたのは女性の腕をつかむ清の姿。
「本当にお気遣いは必要ありません。だ、大丈夫ですので」
声を震わせながらも、再度女性は断った。だが、清は全く手を離そうとしない。
「遠慮すんなって!」
清がぐいと女性の手を引く。一歩よろめいた女性であったが間一髪、どうにか踏みとどまる。
楊鷹は拳を握りしめた。やはりこれは出るべきか。しかし相手は低俗であっても一応役人である。とその時、背中に鋭い痛みが走った。思わず変な声を上げそうになったが、咄嗟に喉に力を入れて抑えた。この感触はつねられた。やった奴はただ一人しかいないので、楊鷹はその相手に視線を滑らせる。眉をつり上げる赤子の顔がそこにはあった。不満と言うよりも怒っているようだ。加えて、毛翠は短い腕を必死に伸ばす。清と女性の方向に。やはり、どうにかしろということらしい。
それでも、楊鷹の心から迷いは消えない。毛翠を振り切るように顔を背けたら、今度は背中が騒々しくなる。毛翠が暴れ出した。おんぶの拘束をほどくほどの勢いだ。
「こら……!」
小声で叱責しながら、腕を回して毛翠を押さえつける。それでも、毛翠は動くのを止めない。耳元に鋭い息がかかる。
「放っておくなど、わしはできぬぞ」
楊鷹は眉根を寄せた。その時。
「離してください!」
悲鳴にも似た女性の声が響き渡る。ふり返れば、女性が清に引きずられていた。父親がよろよろと起き上がろうとするが、その動きは鈍い。
「くそ」と楊鷹は心の中で毒づいた。毒づきながらも、右頬に触れてざらついた感触を確かめる。刺青は、確かに隠れている。
楊鷹は人垣から飛び出した。一目散に騒ぎの場に駆け寄り、執拗に娘を引っ張る都頭の腕を、がっしりと握って押さえつけた。
「よせ。嫌がっているだろう」
なだめるように落ち着いた口調で言った楊鷹であったが、あまり効果はなかった。清はかっと目をむいて、声を荒らげる。
「なんだてめぇ!」
「単なる通行人だ」
「うるせぇ! 関係ない奴は引っ込んでろ!」
清がぎろりとにらみつけてくる。興奮しすぎているのか、それともそんなにこの女性を逃したくないのか。それは知らないが、この状態では言葉を聞いてもらうのは難しいだろう。ひとまず女性の手を離してもらいたいところである。
「うるさいのなら謝ろう。だが、無理強いは良くない」
楊鷹は冷静にそう言いながら、太い腕を握る手にぐっと力を込めた。途端、清は顔をゆがめると同時に、素早く女性から手を離した。楊鷹もぱっと清から手を離し、女性と清との間に体を割り込ませる。
「てめぇ……!」
腕をさすりながら、清が叫ぶ。その顔は真っ赤に染まり、目はつり上がっている。
楊鷹は女性とその父親をかばうように、清へと向きなおる。
「都頭という立場の者が人を困らせてどうする」
言いながら楊鷹は周囲へと視線を投げた。
未だこの騒ぎを見物している者は多い。これ以上――もう十分手遅れなのかもしれないが――無礼な様子を人目にさらすのは得策とは言えないだろう。都頭という立場であるならば、なおさらよろしくないはずだ。
清が落ち着きなく目を泳がせる。怒りよりも焦りの方が濃くなったように思えた。ところが。
「引っ込んでろって言っただろ!!」
大声で一吼え、清が殴りかかってきた。
繰り出される右の拳。肥えた体格にしては素早い動きであったが、楊鷹は難なくかわす。さらに飛んできた二発目もかわし、真正面に来た三発目は避けることなく、伸びてきた拳をつかんで受け止めた。
「これ以上、失態をさらすのはやめた方がいいんじゃないか?」
楊鷹が言えば、清は悔しそうに歯を食いしばる。捕らえた拳に力がこもるのが分かった。だが、それほど重量感はなく。楊鷹は軽々と清を押し返した。
よたよたとよろめきながら後退した清。しかし、気勢を削ぐまではできなかったようだ。彼の目はつり上がったまま、憎々し気に楊鷹をにらんでいる。大人しく退いてほしい楊鷹の思いとは裏腹に、あきらめの悪い男のようだ。
「この野郎っ!」
再び清が楊鷹めがけて突っ込んでくる。
こうなったら一つ痛い目を見せなければならないか。これはほとほと厄介、案の定絡みたくない相手であった。楊鷹は小さく舌打ちした。本当に、どうしてこんな奴が都頭なのだろう。
その時である。突如楊鷹のすぐ後ろから甲高い叫び声が聞こえた。驚く楊鷹。眼前の清の動きも、ぴたりと止まった。
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