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突如として楊鷹の後頭部に衝撃が走り、顔から地面に突っ込んだ。水ではなく乾いた砂粒が口の中に飛び込んでくる。
「馬鹿が! てめぇにやる水はねぇって言っただろ!」
薛用の怒声が降って来る。どうにか頭をひねってみれば、薛用が己の頭を踏みつけていることが分かった。
楊鷹の頭を地面に押し付けながら、薛用はさらに喚き散らす。
「偉そうにしてんじゃねぇぞ、この畜生が! てめぇなんざ人間じゃねぇ! 傷の治りも異様に早いし、化け物だろ! 蛮族と化け物の相の子だ!」
次々と飛びだす侮辱の言葉。腹の底にため込んでいた楊鷹の怒りがついに爆ぜる。楊鷹は一息でありったけの力を込めると、勢いよく上体を起き上がらせた。「ぎゃっ」という薛用の悲鳴が聞こえた。
楊鷹はゆっくり立ち上がると、すぐ右側にすっころんであおむけになっている薛用を見下ろした。いや、見下ろしたなどという生易しいものではない。ありったけの憎悪と怒り、その他諸々の激情がほとばしるまま、睨みつけた。
薛用がひきつった悲鳴を漏らす。先程の威勢はどこへやら、その目は大きく見開かれ明らかに怯えの色が見て取れた。ついでに、すぐ近くにいる董把もすっかり青ざめており、丸い瞳はうっすらと潤んでいる。
そうして無言のまま睨むこと幾ばくか。どうにか正気を取り戻したらしい薛用が口を開く。
「て、てめぇ、何様のつもりだ。何もしねぇって……」
口ではそう言いつつも、声は小さく、しかも震えている。なんの威嚇にも脅しにもなっていない。楊鷹が全く動じずにいると、薛用は口をつぐんで慌ただしく立ち上がる。どうするのかと思えば、護送役人はくるりと背を向け小走りで駆けだした。
「ちょ、ちょっと! 薛用! どこに行くんだよ!」
「うるせぇ! 小便だよ!」
そんな台詞を吐き捨てて、薛用は向こうの茂みの合間に姿を消した。
楊鷹は一つ息を吐くと、どさりとその場に座り込んだ。本音としては横になりたい気分だ。こんなにも消耗した状態で力いっぱい動くのはかなりつらいものがある。あまりにも腹が立ったために、体が勝手に動いてしまったが、本来はまともに立ち回れる状態ではない。結局、水は飲めなかったわけであるし。少し、頭がぼうっととするのも気のせいではなく、調子が悪いために違いない。
「あの、これ、どうぞ」
ふいに、目の前に水袋が差し出された。のろのろと視線を向けると、必死の形相で董把が水袋を握りしめていた。まだ少し目は湿っぽいし、水袋を掴むその手は微かに震えている。なんだか、申し訳ない気持ちがわき上がってきて、楊鷹はそっと目を逸らした
「脅かしてすまない……」
「いえ、すまなくないです! とにかく、これ飲んでください!」
董把は水袋を楊鷹の手に押し付けた。その手の中に納まった待望の水を、だがしかし楊鷹は虚ろに見つめる。あんまりにもぼんやりとし過ぎていて、それが何だかすぐには理解ができなかったのだ。
一拍遅れて、唐突に我に返った楊鷹は、受け取った水袋を思い切り煽った。
夏場の旅路においては、水は非常に貴重なものだ。だが、今の楊鷹はそんなことに構ってられない。渇ききった己の体を癒すため、もらい受けた水をむさぼるように飲んだ。
受け取った時よりもだいぶ軽くなって――おそらく、もう半分くらいだろうか――、楊鷹はようやっと水袋から口を離した。
「恩に着る。助かった」
ぐいと手の甲で口を拭いながら、水袋を差し返す。安堵したのか、董把は表情を和らげ、両手で水袋を受け取った。
「これで、十分ですか? もっと飲んでもいいんですよ? なんなら、食べ物も……」
「いや、大丈夫」
楊鷹は軽く手を掲げて董把を制した。
言葉は嘘ではない。水を飲んだだけだが、それだけで随分と頭もすっきりしたし体も軽くなったように感じる。もう少しは歩けそうだ。足の痛みは相変わらずだが、我慢できる。そう思えるくらいには精神も回復した。
「そう、ですか」
董把はそう言うと、そっとうつむいた。
「あの、その、ごめんなさい……」
語気に覇気はなく、かき消えてしまいそうなほど弱々しい。
楊鷹は目を瞬かせた。そんな風に、悲しそうに謝られることに合点がいかない。
「何が?」
楊鷹が問えば、董把はますますしゅんとしてしまった。
「その、薛用がひどいことをして……」
「ああ」と楊鷹はつぶやいた。同時に内心ではそのことかと納得する。
確かに、薛用の行いは腹が立つ。だが、それで董把を責めるのも違うように思う。第一、彼は先程水を恵んでくれたのだ。昨晩だって、薛用の目を盗んで自身の夕食を分けてくれた。彼は彼なりに考えて、それも楊鷹を慮って行動してくれている節がある。そんな董把に対して怒りを抱くのは、おかしな話である。護送役人が二人一組で任につくとも言えど。
「それは貴方が謝ることではないだろう」
「でも、言われるままで何もできないし……」
「今、俺に水をくれたじゃないか」
楊鷹が言うと、董把は顔を上げた。ぽかんとした表情を浮かべて、食い入るように楊鷹を見つめている。あんまりじっと見てくるので、楊鷹は思わず眉をひそめた。
「何か?」
「あ、いやなんでもない!」
董把は顔を勢いよくかぶりを振ると、幾分表情を引き締めた。
「……あなたはこのまま刑を受けるんですか?」
今度は楊鷹が董把をじっと見つめた。目の前の護送役人の意を図るがごとく、鋭いまなざしを注ぐ。すると、董把の顔つきが次第に強張ってきたので、僅かばかり目を伏せた。
「それは、どういうことだ?」
「いや、だって、おかしいことばかりです。あなたが流刑だなんて」
楊鷹は深々と息を吐いた。
「一応、反詩を書いたことになっている」
「なっているだけでしょう? ……誰だって変な話だって思ってますよ。どうせ采二が何か言ったんだ」
先程も出てきた、聞きたくもない名前。耳にするだけで虫唾が走る。楊鷹は思わず顔をしかめた。
「薛用がおかしいのだって、やっぱり采二に何か言われたんだよ。ろくでもないことを……」
「ぎゃあっ!」
突然の叫び声が董把の言葉をかき消した。この耳障りな悲鳴は、まぎれもなく薛用だろう。楊鷹は向こうの林に視線を投げた。董把も同じ方向を見やる。
間もなく、木々の合間から薛用が姿を現した。帽子を跳ね飛ばして、全力でこちらの方へ走って来る。どうしたのか問い正したくなるくらいの慌てっぷりだ。
「せ、薛用、どうしたっていうんだい?」
「へ、変なガキがいた」
「は? ガキって子供?」
董把が素っ頓狂な声で問えば、薛用は勢いよく頭を縦に振った。
「そうだよ! ガキだよ! 子供! 赤ん坊が一人! しかもしゃべる!」
いまいち意味の分からないことをまくしたてる薛用に対して、董把は黙りこくった。しかし瞳は雄弁で、明らかに疑いの色が浮かんでいる。そんな相方の様子に、薛用が気が付いた。瞬時に顔を真っ赤にして、董把の胸倉を掴む。
「てめぇ! 疑ってんだろ! 本当の話だよ!」
「ちょ、ちょっと止めてよ!」
もみ合う護送役人二人。てんやわんやの応酬を続ける彼らから、楊鷹はふと視線を逸らした。すると。
ばっちり目があってしまった。たぶん恐らく、件の子供と。
いつの間にやって来ていたのか、その子供は四つん這いの体制で、薛用の背後にいた。
薛用の言は確かだった。その子供は、子供というよりも赤ん坊と言った方が近しい。薄汚い衣をまとっているが、ふっくらとした頬は健康的で、真っ黒い髪も艶やかだ。くりくりとした円らな瞳は、真っすぐ楊鷹の方に向けられている。
楊鷹は思わず息を呑む。あの緑色の目は見覚えがある。ものすごく、どこかで。何故だか、じっとりと嫌な汗がにじむ。
黙りこくったままその不思議な赤子と見つめ合うことしばし。楊鷹よりも先に赤子の方が――信じられないことに――口を開いた。
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