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「もー、考えても分かんない! 兄ちゃんのことは知らない! ってか、どうでも良い! 用があるのはそっち!」
楊鷹が抱えている赤子めがけて、少女は斧を突き付ける。
「そいつ、殺すの! 挽肉にするの!!」
かわいい顔のまま、少女はするりと空恐ろしいことを言った。わらべ歌でも歌うような調子だが、まったくもって楽しくない。
「どうしてそんなことを」と問いかけようとした楊鷹だったが、それよりも先に赤子が動く。小さな体で懸命にもがき、口をふさいでいた楊鷹の手を振り払う。
「逃げろ!」
赤子が声を張り上げると同時に、少女は地を蹴った。少女は一飛びで楊鷹のすぐ目の前まで距離を詰めると、息つく間もなく斧を振りかぶる。大きな刃が一層不気味に閃く。
楊鷹の体は自然と反応した。少女の斧が振り下ろされるよりも速く、飛びすさって距離を広げる。
「また、外れ……」
少女はうめきながらさらに踏み込み、斧を振るう。それは人を超えている動きだったが、対する楊鷹も柳のごときしなやかな体さばきで次々とかわす。
先ほどの薛用の惨状を考えるに、一発でも当たったら即死は確実だ。幸い、かろうじて少女の動きにはついてゆけそうである。だが、武器を持たないどころか赤ん坊を抱きかかえている現状、打って出ることができない。このままではやがて押し切られてしまうだろう。
少女は疲れを微塵もみせず、強欲に斧を繰り出す。楊鷹はひたすらかわし続ける。右へ左へ。そして、飛びかかってきた一撃は、弧を描くように身を転じて避ける。ちらと背後を窺えば、水火棍が目に入った。
「今度はどこに行くの!」
未だ止まる気配を見せない少女の猛攻。それを的確な動きで受け流しながら、楊鷹は徐々に薛用と水火棍が転がる方へ近づいてゆく。
いいかげん、手の中の子供が邪魔である。
「くそっ……! 図体でかいくせにちょろちょろ逃げて……」
少女は顔をしかめながらつぶやいた。いよいよ、いら立ちが強くなってきたらしい。そんな彼女の心のありようは、攻撃にも表れる。精度が欠けて、やや大振りになった。楊鷹めがけて叩きつけた斧が豪快に空を切る。生じた僅かな隙。楊鷹は腕の中の赤子に叫ぶ。
「逃げるのはそっちだろう! 行け!」
赤子がはっとして楊鷹を見上げる。
「すまぬっ……」
見た目は年端もいかない幼子だが、すぐさま意図を汲んだらしい。赤子はひょいと楊鷹から飛び降りると、四つん這いで走り去った。
「あー! 待てっ!」
少女が赤子の方へ体を向ける。楊鷹は薛用の水火棍を蹴り上げてぱっとつかむと、さえぎるように少女の体の真ん前へ突き出した。動きかけた細い足が止まる。
「お前の相手は俺がしてやる」
「うー、邪魔するな!」
可憐な、だがしかしひどく凶暴な少女。彼女は楊鷹へと向きなおると同時に、斧を一閃する。楊鷹が退いてかわせば、ためらいなく踏み込んで反対の斧で一撃。だが、ますますいらついているのか、攻撃は大きく直情的だ。
楊鷹は少女の動きがよく見えていた。戦いの場では常に平静でいなければならない。武人であった母がしつこく言っていたその教えを、楊鷹はよく守っていた。心は澄み切った水面のように冴え、なおかつさらに研ぎ澄ませる。
誘うように、楊鷹はわざと動きを遅らせた。すると少女は素直に食いついて来た。渾身という言葉がふさわしい斧撃。斜めに走った刃を、楊鷹はぎりぎりのところで横っ飛びに跳んで避けた。そして、そのままの少女の側面へと踏み込むと、水火棍で小さな背中を思い切り打ちすえた。
「痛ぁっ!」
「はぁ!?」
少女が叫ぶのと同時に楊鷹も声を上げてしまう。なぜなら、水火棍がぼっきりと折れたからだ。それはもう、ものの見事に、真っ二つに。折れた破片の一方は、どこかへとすっ飛んだ。
こんなたった一発で壊れるものだろうか。水火棍はこんなに軟らかい物だっただろうか。いや、硬木でできているのだから、そんなはずはない。だが、この手の中の短い棒きれは一体なんだ。
力を込め過ぎたのか。はたまた、素材の木が腐っていたとか何かだったのか。それとも、少女の全身が馬鹿みたいに頑丈なのか。確かに、彼女は人間離れしている。しかし、どう見ても体の作りは人間と同じにしか見えないのだが。
母の教えたる『いかなる時も平常心』が揺らぐ。
「今の結構痛かったー!」
「うおっ!」
少女が体ごと楊鷹に振り向く。もちろん、斧による攻撃も一緒だ。楊鷹はすんでのところで斧をよけると、そのまま少し距離を開けて動揺しかけた心を静める。
落ち着け、落ち着け。この目の前の少女は人間ではないのだ。人をはるかに凌駕した何者かだ。そんなこと、初めから分かり切っていたことではないか。何が起こってもおかしくはない。
そう自身に言い聞かせれば、心のさざ波はすぐに消え去った。そして先ほどよりも凪いだ、ずっと透き通った心持ちになる。一方、少女は楊鷹とは正反対の様子であった。
「人間のくせに生意気すぎる!」
眉を釣り上げた少女の表情は、明らかに怒りのそれだ。斧を構え直して、楊鷹に突っ込んでくる。猪どころの騒ぎではない、とんでもない勢いだ。
「死ね!」
上段から振り下ろされた初撃は右手。楊鷹はそれを左に避ける。続けて繰り出されたのは足元を狙った左手の横なぎ。今度は飛んでかわし、さらに二歩三歩と後退、少女と距離を取る。
一息に飛びついてこようというのか、少女は深く身を屈めた。そこに楊鷹は水火棍の残骸を投げつけた。
「ぎゃっ!」
水火棍は少女の右目の辺りに直撃した。斧を持ったままの手で、少女は目を押さえる。生じた隙。楊鷹は身をひるがえして全力で走り出した。
澄んだ心で出した結論。こんなもの、まともに戦っていい相手ではない。やり合おうなどと言う選択肢を考えたことが間違っていた。
「待て!」
背後で少女が吼える。思った通り、簡単には逃がしてくれないようだ。跳ぶように大股で駆けながら楊鷹は考える。どうすれば、逃げ切れるか。そろそろ林が近い。並ぶ木々はまばらだが、何もないよりかはましである。ひとまず木陰なり岩陰なりに上手く滑り込みたいが、果たして。
とその時、前方の低木の合間から赤子が姿を現した。先ほど逃げたはずのあの子供だ。まさか、戻ってきたのか。
「お前!」
叱責するように叫ぶが、赤子は楊鷹の意に反してぶんぶんと手を振り出した。
「わしは、こっちだぞ黎颫! ほれほれ!」
赤子は信じられないことを口走った。とっさに、楊鷹は赤子へと進路をずらそうとした。刹那、後方で鳴った風切り音。思わず、楊鷹は体をひねった。間髪を入れずに、黒い影がすぐ脇をものすごい速度で通り抜けて行った。
すぐさま視線を戻せば、赤子のそばの地面に少女の斧が突き刺さっていた。投げたのだ、二丁の斧の一方を。赤子はひっくり返っていたものの、幸い無事なようだ。ばたばたともがきながら、大きな声で叫ぶ。
「楊鷹! こいつを使え!」
楊鷹ははっとした。またもや思いもよらない出来事であったが、今度は揺らぐことなく冷静なままでいられた。楊鷹は跳躍して、地面に突き刺さった斧を掴む。
背後におぞましいまでの殺気が立ち上る。少女に追いつかれた。
やらなければ、殺される。迷う間などない。
「はい、残念!」
高らかに叫んだ少女に対して、楊鷹は振り向きざまに斧を振るった。振るった斧は、羽のように軽かった。
「へっ……?」
少女が間の抜けた高い声をもらす。それっきり、彼女は言葉を失った。
鮮やかに切り裂いたのは、細い胴。二つに分かれた、まだあどけない小さな体。生暖かい赤い液体が舞い散り、楊鷹の体を濡らした。
「な……」
楊鷹は斧を取り落とした。そして、自身に落ち着けと言い聞かせる。けれども、今度ばかりは胸の鼓動はなかなか収まってくれない。右手の感覚が信じられなかった。
薛用の惨状から、少女の持つ斧の切れ味が、とんでもなく良いことは予想していた。だが、予想をはるかに超えていた。少女を斬った時の感触が全くなかったのだ。それほど、恐ろしいほど滑らかだった。肉を絶つ手ごたえも骨を砕く感触も、まるでない。豆腐どころか、空を切るような、そんな感覚であった。
地面に転がる少女の斧。そして、むごたらしい姿になり果てた少女。楊鷹はそれぞれを交互に見やる。一体なんなのだ、これは。
「鷹! 楊鷹!」
名前を呼ばれて我に返る。振り返ればひっくり返ったままの赤子が必死にもがいている。楊鷹は急いでその小さな体を抱きかかえた。
「……これは一体なんだ?」
この赤子も少女や斧と同じく、この異常の一部であることは明らかだ。恐らく、この少女のことも、この事態に関しても当然知っているに違いない。
「お前は一体……」
言いかけて楊鷹は言葉に詰まる。言おうとした言葉は確かにあるのだが、すんなり出てこなかった。
「……待て。話はあとだ。すぐさま他の奴が追いつく。まずは、ここを離れるのが先だ」
「だから、一体どういう……」
一陣の風が吹き抜けて、またもや楊鷹の言葉が途切れる。
突然の風は鋭く旋回し、辺りの砂を巻き上げる。単なる旋風ではない。明らかに異能の香りを湛えている。
「くそ!」
楊鷹は赤子を抱えたまま立ち上がった。
「急げ」
赤子がそう言うのでので、楊鷹は大きく一歩を踏み出した。足の裏がずきりと痛む。戦いに集中していたせいですっかり忘れていたが、足の裏はぼろぼろに傷ついていたのだった。思わず毒づきたくなったがそれはぐっとこらえて、楊鷹はできる限り素早くその場を後にしたのだった。
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