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第二話 久方振りの父子二人
「もう、限界だ……。少し休ませてくれ……」
楊鷹は弱々しくつぶやくと、よろよろと地べたに座り込んだ。
足の裏が痛い。馬鹿みたいに痛い。もともと傷だらけだったところに本能のままの大立回り、さらには日が暮れるまで歩き通しとなった。恐らく傷は悪化して、見るも絶えない様になっているに違いない。
ここがどこなのかはよく分からない。身を隠すようにやぶからやぶへと渡り歩いた結果、荒野からどこかの山道に迷い込んでいた。流刑地である北東の槍山島を目指して、首都円寧府を出立してからだいたい十日と半日。あの少女から逃げ出して半刻ほどだから今いるのは恐らく――と考えたところで楊鷹は思考を止めた。考えるのが面倒くさくなった。それほど、体が疲れている。加えて精神的にもまいってしまっている。
そうして楊鷹が力なくうなだれると、腕の中からはつらつとした甲高い声が響く。
「待て。こんな山道で立ち止まってどうするのだ! 父はお前をそんな軟弱者に育てた覚えはないぞ!」
小さな白い手がぺしぺしと楊鷹の腕を叩く。そうされても、楊鷹は立ち上がろうとはしなかった。そもそもたいして痛くもない。そして、この赤子に育てられた覚えもない。
うなだれたまま黙っていたら、赤子の手が止まった。
「相当、こたえてるのか?」
赤子の問いかけにやはり何も答えることなく、楊鷹は目をつぶった。そうして闇の中に閉じこもり、ひたすら静かに呼吸を繰り返す。
「……ええと、すまんの。だがお前のおかげで助かった。あの最後の一撃も見事だったぞ」
下方から聞えてきた赤子の声に、楊鷹の意識が引っ張られる。瞼の裏に広がる、あの光景。鈍く光る斧の刃と、上半身と下半身が分かれた少女。
人を斬ったのは初めてではない。武官になってから、というよりなる前に、経験している。とっくに初めてではない。けれど、それでも斧の切れ味が、そしてそれ故の死にざまが、心の隅に引っかかっている。あんな武器、おいそれと振るっていいものではない。思い返すだけで、背筋が寒くなって来る。
また赤子の声が聞こえてくる。
「さすがにああなったら動けないし、後から来た仲間も助けるために、一旦戻っただろう。だからまぁ、少しゆっくりするか」
楊鷹は目を開け、まじまじと赤子を見つめた。この赤子、今とんでもない発言をしなかったか。
「助ける? あんなになって助かるのわけないだろう」
「いや、助かると思うぞ。あれでは死んでないだろうからな」
赤子は先ほどと同じ調子で、あっけらかんと言い放った。
楊鷹はますますじっと腕の中の子供に視線を注いだ。いろいろ突っ込んで尋ねる必要がある気がした。が、そこを深ってもただただ疲労がたまるだけだろう。生憎、そんな元気はない。
とはいえ、である。そこに関しては一旦保留としても、ちゃんと聞いておかなければならないこともあった。人とは比べ物にならない超絶少女よりももっと大切な、楊鷹にとっての重要事項。
楊鷹は一つ息を吐くと、慎重に言葉を発した。
「お前は一体なんだ? さっきから父と言っているが、本当に俺の……その、父親なのか?」
「ああ。お前の父親だぞ」
赤子はあんまりにもあっさりと答えた。楊鷹はつい顔をしかめてしまう。
楊鷹の父親は、楊鷹が幼かった頃に突然姿をくらました。確か、四つだか五つだかそのくらいの時だ。それ以来、父親には会ったこともなければ、見たこともない。父親に関する記憶はおぼろげな部分も多いが、少なくとも楊鷹が覚えている限り、父は人間の大人の姿をしていた。滑らかな黒髪に玉のごとき緑の目を持った、年若い男だったはず。少なくともこんな赤ん坊ではなかった。それは断言できる。
確かに、この赤子は楊鷹の父親の面影を残している。つやつやとした黒髪に緑の瞳。特にこの目の色である。楊鷹と同じ緑色の瞳は、普通この稟国では見られない。
赤子を真っすぐ見つめながら、楊鷹はさらに尋ねた。
「名前は?」
「毛翠だ。前にこっちにいた時はそう名乗っていた」
きっぱりとした赤子の答えを聞いて、楊鷹の表情はますます強張った。答えの後の方はともかく、重要なのは毛翠と言う名である。それは、楊鷹の父の名前だ。容姿だけでなく名前まで同じであるということは。だが、まさか、そんなわけが。
楊鷹の気持ちをくみ取ったのか、赤子が先んじて口を開く。
「信じれんか?」
「……にわかには。普通はそうだろう。自分の父親がこんな流暢にしゃべる赤子になるなんて、一体どこの世界の話だ」
「まー、人の世では普通はないわな。だが、わし人じゃないし」
また、さらりととんでもないことを言った。
「人じゃないだと?」
「そうだ。あれ、知らなかった? 楊麗からも聞いてない?」
今度はしれっと母の名を言われ、楊鷹は絶句した。
「あー、その感じゃ聞いてなかったか……」
何も言えなくなっている楊鷹をよそに、赤子は自らの懐を探って何かを取り出した。
小さな手の中にあったのは、耳飾りの片割れだった。黒曜石でできた矢じり型の飾りは、楊鷹にも見覚えがある。母親が持っていたものと同じだ。母も同じ意匠の耳飾りを一つ――つまり片方だけ――持っていた。
楊鷹の記憶がさらに呼び覚まされる。いつだったか、どうして片方しか持っていないのかと母に問うたら、「もう片方はお父さんが持っているの」と答えた。それを、持っているとはどういうことか。
「どうだ? これで信じてくれるか?」
「……一体どういうことか、説明しろ」
赤子もとい毛翠に対して、楊鷹は厳しい口調で言った。
ところが、毛翠は楊鷹から目を逸らすと「あー」と言葉を濁した。なぜここにきて言葉を濁すのか。楊鷹は赤子を眼前に抱きかかえると、その顔を睨みつけた。答えないことは許さないと、念を込めつつ。
赤子はぽりぽりと頬を掻きながら視線をあちらこちらにさまよわせた果てに、ようやっと口を開く。
「まぁ、いろいろ積もる話があってだな。その、端的に言うと……まず、わしは人ではくて神仙の仲間でな」
「神仙……というのはあれか。主に桃李虚に住む不思議な力を持った不老不死の存在か」
「そうそう。それそれ」
赤子は笑顔で頷いた。その、単なる雑談とでも言わんばかりの軽い態度が癪に障る。「それそれ」と言われたところで、「はいそうですか」と簡単に納得できるわけがない。
楊鷹は語気荒く言い返した。
「そんな話、信じられるか!」
神仙の伝説は、楊鷹も聞いたことがある。特に幼い頃、母が子守唄代わりによく語ってくれた。伝説によると神仙とは不老不死の存在で、神通力を備えているという。例えば、空を飛んだり、とんでもない膂力を獲得したり、火や風を起したり、その他諸々。そんな人知を超えた存在の神仙たちの多くは、稟国の西の果てだが海の果てにある『桃李虚』という仙境に暮らしているらしい。だが、たまに人の世界にもひょっこり現れることもあるとか。
幼少時に親しんでいた影響か、楊鷹は神仙や仙境の存在を否定するつもりはない。神仙や仙境は実在しない、という証拠はないのだ。
だが、楊鷹はこれまでの人生において、神仙と呼ばれる存在に出会ったことはなかった。せいぜい、「どこそこの山に神仙が住んでいるらしい」という、曖昧な噂を聞いたことがある、というのが関の山。当然、仙境に行ったこともない。日々の暮らしを保つのに必死で、そんな夢幻の世界に思いを巡らせる間すらなかった。
「人ではない」というのは最もだ。だからと言って突然神仙とか言われても、戸惑ってしまう。一体なんなのだ、この父親らしい赤ん坊は。父親らしい赤ん坊だなんて、おかしな言葉だ。どうして、母親の私物を持っている。もう、訳が分からない。
「ああもうなんなんだ……。あの少女と言いこの子供と言い、夢ならさっさと醒めてくれ」
いっそ流罪になるのも夢であればいいのに。そんなことを思った途端、小さな手が伸びてきて楊鷹の頬をつねった。思い切り力を込めているのか、なかなか痛い。
「なんのつもりだ。痛いぞ」
「ほれ痛いだろう? ということは、夢ではない」
やっぱり軽い口調であったが、そう言われて楊鷹は口を閉ざした。すると、毛翠がぱっと頬から手を離す。
「信じられんかもしれないが、冷静になって考えてみろ。まず、李颫……先ほどの少女だが、あれも神仙だ。あの娘、到底人間のようではなかっただろう」
毛翠の言う通り、先ほど襲い掛かってきた少女は人間というには異常が過ぎた。それに、彼女が神仙であるなら、体が真っ二つになっても死んでいないことに説明がつく。神仙は不老不死と謳われているのだから。
「わしだってそうだ。赤ん坊なのにしゃべっているだろう? これもわしが神仙だからであって、人間とは違うからだ。もう一度言うが、わしは人じゃない」
なるほど、赤子の姿で流暢に言葉をしゃべるのは、神仙が持つ不可思議な力が作用してのことなのか。それならば、一応つじつまが合う。
「それから……お前も、少し普通の人間とは違うところがあると思うが、どうだ?」
追い打ちをかけるように放たれた言葉に、楊鷹はどきりとした。
しばしの沈黙。毛翠の表情は、至って真面目だ。やがて、楊鷹は盛大なため息を吐くと、力なく尋ねた。
「……それじゃあ、その神仙様が一体どうしたんというんだ。俺の父親は赤ん坊ではないはずだ」
「え? えーと、それはだな……」
毛翠はさっと視線を逸らして、口ごもる。ついさっき真摯な面構えで雄弁に語っていたのが嘘みたいだ。待つこと毛翠が口を開いたり閉じたりを繰り返して五回目、観念したのか彼はひきつった笑みを浮かべながらのろのろと語り始めた。
「そのー、ちょっと事情があって桃李虚に戻ってたんだけど、ちょっと面倒を起してしまって怒られてしまってな。それで、罰としてこんな姿に変えられて、こっちの人の世界に放り出されたんだわ」
「……なんでまた人の世にほっぽり出されたんだ」
「赤ん坊の姿にされたうえ人の世界にほったらかしにされたら、屈辱だろうし困るだろうというわけだ。まぁ、その追放されたんだ」
「……それじゃあ、さっきの神仙の少女は? なんで殺されそうになっていた?」
「あー、なんで狙われているのかはよく分からん。その、わしのこと嫌いな奴もいるし、そもそもわしって人望ないから、この機会に始末しようとしとるのかも」
「なんだその物騒な話は……」
だんだん頭が痛くなってきた。神仙の世界といえど案外俗っぽく、血なまぐさいものらしい。驚いた、と言うより呆れてしまう。またまたため息をもらしながら、楊鷹はうなだれた。
(とんでもない話だな……)
いくら痛みを感じて、今この状況がまごうことなき現実だとしても。どこまでも浮世離れした話にうんざりしてしまう。
だが、毛翠の話を嘘だとか狂言だとか何かの間違いだとか、そう言ってばっさりと切り捨てるのは早計なような気がした。神仙であるということも、自分の父親だということも。今日味わった異常の数々を振り返る。それから、母親の物と同じ耳飾りと自分自身について。ふいに「化け物との相の子」という薛用の言葉が頭の中に甦った。
楊鷹がじっと考え込んでいると、毛翠が口を開いた。
「まぁ、話はこれくらいで良いだろう。暗くなってきたし、そろそろ行こう」
毛翠は口早にそう言って話を切り上げると、さっと右手の方を指し示した。
「あちらから飯を炊くにおいがしてくる。きっと人家があるはずだ。今夜はそこで世話になろう。ここのところ、まともな食事をしてないからな。いい加減、ちゃんとした食べ物を食べたい」
まったくもって、楊鷹の気の迷いなどお構いなしといった調子である。勝手に話を進める上に、随分と気軽に言ってくれたものだ。楊鷹のいらつきが一息に頂点に達する。思わず、叫んでしまった。
「こんななりで、人様の世話になれるか!」
ぼろぼろの身なりの赤子と青年。それだけなら、一見浮浪者の親子とみなされるだけで済む。だが、楊鷹の衣服には赤黒い返り血がたんまりと付いていた。加えて頬には罪人の証である刺青まである。どこをどうしたって不審者でしかない。
「んあ? あー、まぁ何とかなるだろう。歩いてる間に、ちょうどいい身の上話をわしが考えておいてやるから」
「……本当だな?」
「もちろんだ! 父に任せておけ!」
「絶対だからな! 思いつかなかったはなしだぞ!」
声を荒らげながらも、楊鷹はすっくと立ち上がる。完全にやけくそである。
すでに辺りは暗く、連なる木々の影は闇に溶け込もうとしていた。振り仰げば、茜色は空のほんの端にまで追いやられている。夜はすぐ近くまでやって来ていた。毛翠の言いなりになってしまっていることは悔しい。それでも、不本意ではあるが毛翠の言葉は最もであると楊鷹は気が付いた。こんなぼろぼろの状態で夜露にまみれるのは、できることなら避けたいのが本音。もし、人家で休めるのならそっちの方がずっと良い。
楊鷹が一歩を踏み出せば、案の定足の裏に痛みが走る。はっきりとした感覚に楊鷹は思わず顔をしかめてしまった。やはりこれは夢でなく現実なのだ。
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