第二話 久方振りの父子二人

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 感情も何も乗せずに言ったつもりであった。しかしそれでも、答えた言葉ははまるで重量を持っているかのように、場に垂れこめた。重々しい空気が漂い、息が詰まる。刹那、母の最期の時を思い出しそうになり、楊鷹(ようおう)は目を閉じた。大きく息を吸って吐く。かすかに火の爆ぜる音が聞こえる。あの老爺(ろうや)はいつ戻って来るのだろうかと、楊鷹はぼんやりと考えてみた。  火の粉の音に、か細い声が重なる。 「……そんなに前に?」 「そうだ」  楊鷹がぞんざいな口調で答えると、毛翠(もうすい)は「そうか」とますます力ない声で言った。さっきまでのはつらつとした口ぶりが嘘のようだ。思わず毛翠を見てみれば、彼は深々とうなだれていた。全身からは重苦しい雰囲気がかもし出されている。つられるように、楊鷹も目を伏せた。どうしてか、胸の奥がきしむ。  と、その時。突然毛翠ががばりと顔を上げた。楊鷹は目を見張った。鬱蒼(うっそう)とした空気を一息に吹き飛ばし、瞳をきらきらと輝かせている毛翠。今度は一体何事か。 「……酒、酒の臭いがする!!」 「はぁ?」  先程から随分と鼻が良いことだ。それはともかく、外見と不釣り合いすぎる発言はなんだ。 「酒の臭いがするぞ! 飲みたい!」 「飲みたい? だめだ」 「なんで!」 「どこに酒を飲みたがる子供がいるんだ」 「わしは子供ではないぞ!」 「だから、どこからどう見ても子供……」  言いかけてはっとする。恐る恐る振り向けば戸口のところに老爺が立っていた。片手には湯気を発する器が乗った盆、もう一方の手には小さな壺を持っていた。またしてもいつの間に。 「なんだか賑やかな声が聞こえましたが、どうかされましたかな?」  老爺はきょろきょろとしきりに辺りを見回している。 「いえ、慣れない場所のせいか、子供が少し騒いでしまっただけです。申し訳ない……」  楊鷹は、言いながら胃が痛くなるのを感じた。語調も変に硬い。しかも随分と下手くそな嘘である。老爺がどの程度聞いていたかは知らないが、かなり苦しい言い逃れであった。  だが、老爺は柔らかく笑いながら「そうでしたか」と頷いただけだった。その反応に楊鷹は安堵しつつも、どこか不安を覚える。この老爺、さっきからあっさりしすぎなような気がする。気配を感じさせないところも併せてみれば、もしやただ者ではないのではないか。  警戒した方が良いかもしれない、と内心改めて身構えた時、背後から呟き声が聞こえた。 「さけ……」  楊鷹は素早く振り返って、毛翠を鋭く睨みつけた。毛翠はすぐさま意を汲んだらしく、黙り込む。しかし、薄い眉を寄せたその表情は、ひどく不満そうだ。  老爺が盆と壺を卓の中央に乗せた。器には豆粥(まめがゆ)がたっぷりと盛ってあった。そして隣の黒い壺の中身は恐らく酒だ。毛翠が一心に視線を注いでいるので、間違いない。 「どうぞ、召し上がってください」  老爺はにこやかに言った。 「あ、ありがとうございます」  楊鷹の声音は、未だにぎこちなかった。その強張った声が気になったのだろうか。老爺が楊鷹をじっと見据えてくる。垂れ下がった(まぶた)の隙間から見える瞳の光が鋭い気がする。楊鷹は警戒心を強めた。  だが、突如老爺は破顔すると、自身の頬を指さした。 「足だけではなくて、こちらも手当てをしておいた方がよさそうですな」  言われて楊鷹は気が付いた。とっさに頬を手で隠す。だが時すでに遅し。ばっちり、見られてしまった。頬の刺青(いれずみ)、罪人である証を。  緊張が高まる。楊鷹は老爺を真正面から見返した。相手を観察するように、一挙手一投足を見逃さないように、集中して老爺の様子を探る。  だが、老爺は相変わらず朗らかな様子だ。優雅な手つきで長い髭をなでている。 「そんなに気を張らずとも大丈夫ですよ。貴方に害を及ぼすつもりはこれっぽっちもありません。第一、こんな老人が貴方のような若者に敵うはずがない」  確かにそうだと思いかけて、はたと留まる。  先程から異常な出来事が頻発している。だから、この老人がとんでもなく腕の立つ剛の者だとしてもおかしくはない。いや、おかしい話なのだけれども、少なくとも今の楊鷹にとっては考えなければならない可能性の一つであった。 「確かに、そうかもしれないですが……」  あいまいな返事を返すと、老人はちらと楊鷹の背後をのぞき見た。 「もしかして、食事に毒を持ったとでもお思いですかな? だとしたら、すぐにでもお止めになった方がよいですぞ」 「え?」  言われて振り返ってみれば、毛翠が無邪気に豆粥を食べていた、というよりも散らかしていた。盆の周りには(かゆ)がこぼれ、役目を果たせなかった(さじ)が脇にすっ転がっている。毛翠は身を乗り出して、一生懸命粥を掴んでは、米粒やら豆のついた手を舐めていた。その口の周りや胸元にも、大小様々な粒がたっぷりついている。  楊鷹は素早く毛翠を抱きかかえる。毛翠は不満げに手足を動かしたが、それを無視して小さな体を椅子(いす)に収め、胸や口元についた粥をきれいにぬぐう。手を動かしながら、叱責するように小さな声で言った。 「また勝手に……!」 「……酒は我慢しただろうに」  毛翠の小声の反論に、楊鷹は思い切り言い返したくなった。それをどうにかこらえて、散らかった豆粥を片付け始める。淡々と無言を貫いて。器の中には、粥は一口程度しか残っていなかった。信じられない早食いである。  老爺が声を上げて笑う。 「元気なお子さんですね」  そう言われても、楊鷹は反応に困ってしまう。いい返事がぱっと思い浮かばず、ただ「ええ」と短く頷いた。  楊鷹から数歩身を離し、老翁は静かに笑う。 「貴方たちからは不思議と悪い気は感じないのです」  それから「私の勘はよく当たるのですよ」と付け加える。先程感じた鋭さは、今は全くなかった。ただただ温かい老爺の笑みから、悪意は感じられない。粥を食べた毛翠の様子も、特に変わったところはない。人間でないため、その症状が出ていないだけかもしれないとはいえ、眼前の老爺の笑顔を疑う気にはなれなかった。それどころか、楊鷹は急に恥ずかしくなってきてしまった。この老爺の善意を疑ってしまったことが、とんでもなく無礼なことであったように思えたのだ。 「かたじけない……」  楊鷹はしずしずと謝った。だが、老爺は特段気にした様子もなく笑顔のままだ。 「いえいえ、お気になさらず。最近は何かと物騒ですからな」  そう言って、老爺は少しばかり悲しそうに目を伏せた。 「ここの御堂も、盗賊に荒らされてこのような有様です」 「そうだったのですか」 「ええ。前から(さび)れていましたが、さらにひどいことになってしまいました」  老翁はひとつため息を吐くと、顔を上げてすっかり暗くなっている窓の外を見つめた。 「……本当にひどい有様になってしまいました」  そうつぶやく老爺の声音は、随分と息の混じったしわがれ声だった。じんわりとにじみ出る悲しみの色。この(びょう)は、彼にとってとても思い出深い場所なのだろう。 「……大切な場所なんですね」  楊鷹が言うと、老爺はふり返って頷いた。 「ええ。この廟の裏手に縁故のある者の墓がありましてね。この有様になってからは、ここに住んで手入れや供養をしているんです。このまま放っておくのはどうしても忍びなくて」  楊鷹は首を伸ばして窓の方を見た。暗闇しかなかったが、なるほど近くに墓があるのか、と納得する。山中の寂れた廟に人がいるのは不思議であったが、この老爺にはそうするだけの理由があった。恐らく、嘘ではない。再び窓の外を眺める老爺の様子から察するに、ここは本当に思い入れのある大切な場なのだろう。しばらくの間、老爺は静かに窓の外を見続けていた。いくら目を凝らしてもそこには闇しかないが、彼の心の中にはくっきりと見えているに違いない。廃れる以前の廟の光景が。  やがて、老爺はそっと口を開く。 「しかし、こうなったのも仕方のないことかもしれません。どこもかしこも、世の中全体がおかしなことになっているようですから。罪なき人間が裁かれ、罪のある人間がのうのうと生きている、という話など日常茶飯事だと聞きますし、貧富の差も広がってきている」  確かに、老爺の言う通りだ。楊鷹自身、かつては貧しい暮らしに身を置いていた。都で曲がりなりにも武官として働くようになってからも、華やかに栄える陰で労苦にあえぐ市民の話は耳にしていた。実際に見たこともある。通りの隅にうずくまる物乞(ものご)い達。裏道に並ぶ、今にも崩れそうなぼろ屋。それらは決して少なくなかった。そして、栄華そのものがが歪んできていることも、楊鷹はよく知っていた。中央では賄賂(わいろ)や不正が堂々とまかり通っていた。皆、見て見ぬふりをしていた。それどころか、むしろそうすることが正道であるかのように人に勧める輩までいた。  楊鷹自身、高官に便宜を図ってやるからと、とある官吏から金品を求められたことがある。頑として突っぱねたら、相手はひどく嫌そうな顔をしていた。  華は腐りつつある。  そのような状況に嫌悪を感じながらも、大した地位も権力もない楊鷹には、どうすることもできず。そして結局、不正のもとに貶められた結果、今ここにいる。腹立たしいやら情けないやら申し訳ないやら、いろいろな感情が去来する。こっそり唇を噛みしめながら、楊鷹は黙って老爺の話を聞いていた。 「山賊の類も本当に増えました。北西の蒼香(そうきょう)山にも、賊が住み着いているようです。噂では、彼らの中にはもともと役人だった者もいるとかなんとか。もう、何が何やらですな。……多くの人が、望まずとも事情を抱えてしまう時流なのでしょう」  振り返った老爺が、楊鷹に微笑みかける。その優しい表情を見て、楊鷹ははっと気が付く。彼は楊鷹達がどこか普通でないことを分かったうえで――やはり上手くごまかせたとは到底思えないのでそれもそうだろう――受け入れてくれているのだ。  楊鷹は改めて深々と頭を下げた。 「いろいろと感謝します」 「とんでもない。かわいいお子さんを見れて、こちらとしても嬉しいですよ。狭い所ですが、今夜はゆっくりしてください」  もう一度、楊鷹は目礼した。この老爺にはひたすらに感謝の念しかない。 「さて、もう少し粥を持って来ましょう」  そう言って、老爺が笑う。だがその目線は楊鷹というよりその背後に向いていた。楊鷹が顔だけで振り返ると、真っすぐ老爺を見つめる毛翠の姿が目に入った。あまりにもじっと視線を向けているのでどうしたのかと不思議に思ったその途端、ふいと顔を卓の方に向けた。同時に短い腕が壺へと伸びる。反射的に、楊鷹はその腕をはっしと掴んだ。 「あの老人がいなくなったのだから、少しくらいいいだろう」 「だめだ」  盛大に眉根を寄せる毛翠に、楊鷹は断固として言う。物騒な真似はやめてほしい。あの老爺がいつ戻って来るか知れたものではないのだから。楊鷹は戸口の方に向きなおった。 (悪者ではないと思うが、やはり不思議な方だ……)  思った通り、老爺の姿はすでになかった。毛翠の動作で、楊鷹は老爺が小屋から出て行った瞬間を察した。しかし、直接は気が付かなかった。またしても、老爺は何ひとつ音を立てることなく、密やかに姿を消したのだった。
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