01. 雨と教室

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01. 雨と教室

  ぱらぱらと窓を叩く雨音が聞こえてきて、私は顔を上げた。  見ると教室の開いた窓から雨が降り込んでいたから、大変だ、と口の中で呟いてあわてて立ち上がる。すると拍子に腕が机にぶつかった。がたんと大きな音を立てて机が揺れる。あっと思ったときには、そこに載せていたプリントが勢いよく滑り落ちていた。  床に散らばった数十枚のプリントを眺め、ため息をつく。せっかく半分以上終わらせていたのに、また一からやり直しだ。急に体から力が抜けて、私はのろのろと歩いていって窓を閉めた。それから派手に散乱するプリントを拾い集め始める。何枚かは廊下のほうにまで飛ばされていた。もう一度ため息をついて、それらを拾うため一旦教室を出たときだった。  廊下の向こうから歩いてくる人影が目に入った。何とはなしに横を向く。薄暗い廊下の先、いたのは一人の男子生徒だった。その顔が見知ったクラスメイトのものだったから、あ、と小さく声が漏れる。その間に彼と目が合ってしまって、あわてた。どうしよう、やっぱり声を掛けたほうがいいだろうかと私がまごついていたら、彼のほうが先に口を開いた。 「なにやってんの、倉田」  私はちょっとびっくりして、彼の顔を見る。彼はいつも教室でみんなに振りまいているのと同じ、柔らかな笑顔を浮かべていた。  彼の口から出た私の名前に、ああ名前覚えていてくれたんだ、なんて変な感慨を覚えつつ、「永原くん」と、とりあえず私も彼の名前を口にする。 「それ、どうしたの」  そう言って永原くんが指さしたのは、私の手にあるプリントの束だった。 「ああ、えっと」  口を開いたら、あからさまに緊張した声が出てしまった。嫌になる。私はいつもこうだ。 「次の授業で使う、日本史のプリント。先生が、一人分ずつ綴じておいてって、言ってたから」  答えると、永原くんはちょっと怪訝そうな面持ちになった。 「クラス全員分の?」 「う、うん」 「倉田一人でやってんの?」  私が頷くと、永原くんは少しだけ眉を寄せた。私の手の中のプリントと床に散らばっているプリントを順に見たあとで、再び私の顔に視線を戻し 「なんでこんな廊下に落ちてんの」 「あ、えっと、さっき机にぶつかって、落としちゃって」 「普通こんな派手に散らかすかなあ」  永原くんはおかしそうに笑ってから、床に落ちているプリントを拾った。そうして手際よく廊下にあったプリントをすべて拾い集めてくれた彼に、「あっ、ありがとう」と私はあわてて手を差し出したけれど、彼は私にプリントを渡すことなくそのまま教室へ入っていった。ぽかんとしつつ、私も彼の後を追う。永原くんは私の机のところまで歩いていくと、そこにあった残りのプリントの山に、今し方拾ったプリントを重ねた。それからおもむろに隣の机を動かし、私の机とくっつけ始めたので 「なにしてるの?」  困惑して尋ねると、彼はこちらを振り向いて、にこりと笑った。 「こうやってプリントを並べて一枚ずつ順番に取っていって、最後に綴じれば早いと思うよ」  唐突にそんなことを言われ、はあ、と思わず間の抜けた相槌を打ってしまうと 「さ、早くやろ」  永原くんが笑顔で促してきたので、そこで私はようやく彼の意図を理解した。驚いて、えっ、と声を上げる。 「手伝って、くれるの?」  うん、と永原くんは当たり前のように頷いた。それから 「こういうのって、二人でやれば早いから」  言って、「ほら、やろ」ともう一度にっこり笑って促した。  永原くんの言ったとおり、さっきは半分を綴じるのに三十分以上かかった作業も、二人でやれば二十分も経たないうちに終わろうとしていた。不器用な私と違って、永原くんがてきぱきと手際よくこなしてくれたせいかもしれない。  まとめ終えたプリントを今度はホッチキスで留めていたところで 「倉田さ」  ふいに永原くんが話しかけてきた。うん、と私が手元から視線は上げないまま聞き返すと 「今度からは、誰かクラスのやつにも手伝ってもらいなよ、こういうの。倉田一人でやることないよ。大変でしょ」  穏やかな口調で言われた言葉に、私は、え、と困惑した呟きを漏らしてしまった。彼のほうを見ると、口調と同じ穏やかな目がこちらを見つめていたから、さらに困ってしまって私は咄嗟に視線を逸らす。そうして手元のプリントを睨むように見つめたまま、返す言葉を探しあぐねていると 「おれでもいいから」  なにかを察したように、永原くんがすぐに続けた。驚いて顔を上げる。彼はにこりと柔らかく笑って 「ていうか、そうして。おれに言って。先生からなにか頼まれたりしたときはさ、一人じゃ大変ならおれがいつでも手伝うから」  私は思わず、無言で彼の顔を見つめてしまった。永原くんも柔らかなその笑みを崩すことなく、じっと私の目を見つめ返す。それは見慣れた笑顔だったけれど、こうして私だけに向けられるのはきっとこれが初めてだった。  数秒の間の後、我に返った私はあわてて視線を落とす。ありがとう、と口の中でもごもごと呟けば、うん、と永原くんは笑って、手元のプリントに視線を戻した。  ――ああ、彼はこういう人なのだ。ぼんやりと、そんなことを思う。  本当に誰にでも分け隔てなく接することができて、一度も口をきいたことのない私の名前だって覚えていてくれて。クラスメイトなのだからそれくらい当たり前なのかもしれないけれど、でもきっと、まだ私の名前を覚えていないクラスメイトは多いはずだ。私はいつも俯いてばかりだから、顔すらわからない人もいるかもしれない。  だけどきっと、彼にはいないのだろう。彼の名前を知らない人も、口をきいたことがない人も、彼を嫌いだなんて言う人も。  考えていくとなんだか気持ちが落ち込んできて、振り払うように軽く頭を振った。手にしていたプリントをきれいに揃え、ホッチキスで留める。それから次のプリントに手を伸ばしかけたところで、そういえば、とふと思い当たった。 「あの、永原くん」  呼ぶと、うん、と聞き返しながら彼がこちらを向く。目が合った途端私はまた視線を逸らしてしまって、すぐに後悔した。目が合うなり逃げるように逸らされたら、良い気分はしないに決まっている。この間も浩太くんに注意されたばかりだった。わかってはいるのだけど、未だに人と目を合わせるのはどうにも苦手で、なかなかうまくやれない。 「なにか用事があって、教室に戻ってきたんじゃないの?」  一度逸らしてしまったら再び視線を戻すタイミングも掴めなくて、私は自分の手元を見つめたまま続けた。けれど永原くんはなにも気にした様子はなく、ああ、とあっけらかんとした調子で口を開き 「帰ろうとしたら雨降ってきたから、折りたたみ傘取りに戻ってきたんだよ」 「あ、そっか、雨が」  永原くんの言葉で思い出して、窓の外へ目をやる。いつの間にか雨脚がだいぶ強まっていて、窓ガラスの表面を滴が次々に流れ落ちていた。しばしそれを眺めたあとで、ふいに思い出した事実に、私は、あ、と声を上げる。 「どうかした?」 「そういえば、私、傘持ってきてない……」  今更愕然として呟くと、永原くんは、え、と声を上げて同じように窓の外へ目をやった。そうして少しの間外の景色を眺めたあとで、「じゃあさ」と明るい表情でこちらへ向き直り 「おれの傘、貸すよ。倉田に」  当たり前のようにそんなことを言った。「へっ?」と素っ頓狂な声が漏れる。驚いて永原くんの顔を見ると、彼は柔らかく笑って 「おれの家近いし、走って帰れば大丈夫だから」  相変わらずあっけらかんとした調子で続けた。彼の言葉が終わらないうちに、私はあわてて声を上げる。 「い、いいよ! そんな、とんでもない」  ぶんぶんと首を振る私に、永原くんは小さく声を立てて笑うと 「いや、マジで近いから。全然大丈夫だよ。貸すよ、傘」 「ほ、本当にいいよ。あの、私の家も、近いからっ」 「でも絶対おれの家のほうが近いって。それに倉田って、なんかちょっとでも濡れたらすーぐ風邪ひいちゃいそうだもん」 「で、でも」  私はすっかり困ってしまって、口ごもる。傘を借りるなんてとんでもない。そんな迷惑をかけるのは怖い。それでもし永原くんが濡れたせいで風邪でもひいたら、どうすればいいのかわからない。一気にそんなところまで考えが巡った私は、「あ、それなら鈴ちゃんか浩太くんにっ」と急いで口を開く。 「鈴ちゃんか浩太くんに、一緒に傘に入れてもらって、一緒に帰る」  いつも困ったときは咄嗟に縋ってしまう二人の名前を出せば、永原くんは少しきょとんとして 「二組の八尋と羽村? なに、倉田と家近いの?」 「う、うん、すぐそこなの」 「へえ。ああ、それで仲良いんだ、三人」  永原くんは納得したように呟く。私は短く相槌を打ってから、だからね、と早口に続けた。 「傘は大丈夫だよ。あの、わざわざ、ありがとう」  言うと、永原くんはなんだか諦めたように笑って、わかった、と穏やかに頷いた。  だけどプリントをすべて綴じ終えてから二組の教室を覗いたとき、そこはすでに空っぽだった。よく考えれば、放課後に入ってからもう一時間近く作業をしていたことを今更思い出す。二人ともとっくに帰ってしまったのだろう。  入り口に突っ立ったまま、途方に暮れて二組の教室を見渡していると 「やっぱり、傘貸すよ」  一緒に教室を出た永原くんが、横から優しく言った。私は弾かれたように彼のほうに向き直ると、またあわてて首を振る。 「そ、それはいい、本当にいい。そんなの悪いから」 「気にしなくていいって。ていうか、こんな中濡れて帰らせんのおれが気になるから、借りてよ、傘」  それを言うなら、と私は思わず意気込んで声を上げていた。 「私も気になるよ。私のせいで永原くんに濡れて帰らせるの」 「おれは本当に大丈夫だから」 「私も本当に大丈夫だよ」  そんな埒のあかないやり取りを繰り返しているうちに、下駄箱に着いた。こうなれば早い者勝ちだと思い、「と、とにかく」と私は早口に重ねる。 「私、傘は借りない。走って帰る」  できるだけきっぱりと言い切ってみれば、永原くんはちょっと困ったように笑った。それからふっと外へ目をやり、弱まる気配のない雨を眺める。なにか考えるように彼はそうしてしばし外を眺めていたけれど、やがてこちらへ視線を戻し、わかった、と言った。  私はほっとして頷いてから 「あの、でも、心配してくれてありがとう」  あわてて付け加えると、うん、と永原くんは穏やかな笑顔のまま頷いた。永原くんが気を悪くはしなかったようだったから、私はもう一度ほっと息を吐いて、自分の下駄箱を開ける。永原くんも同じように自分の下駄箱を開け、靴を取り出した。そうして二人並んで靴を履いていると、「あ、倉田」とふいに永原くんが呼んだ。うん、と聞き返しながら彼のほうを向き直る。永原くんは、左手に持っていた折りたたみ傘をこちらへ差し出し 「ちょっと持っててもらっていい?」  と言った。どうやら靴紐を結び直したいらしい。私は頷いて、彼の手から折りたたみ傘を受け取る。ありがと、と笑ってから、永原くんはその場にしゃがんだ。そうして素早く靴紐を結び直したあとで 「――返すの、いつでもいいから」  唐突にそんなことを言った。なにを言われたのかわからず、「へ?」と間抜けな声を上げる私には構わず、彼はさっと立ち上がると 「じゃあ、また明日」  それだけ言って、私がなにか言うより先に、雨の中へ飛び出していった。  あっという間に運動場の向こうへ消えた背中を呆けたように見送ったあとで、私は自分の手元へ目を落とす。そうして、そこに残された彼の折りたたみ傘をぽかんと見つめた。
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