05. 好きなひと

1/1
152人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ

05. 好きなひと

 鈴ちゃんの家の中には、ピアノの柔らかな音色が流れていた。鈴ちゃんの部屋へ向かう途中にそっとリビングを覗いてみれば、少し前屈みでピアノの前に座る小さな背中が見えた。時折止まったり音を外したりはしながらも、聞き覚えのある美しいメロディーが続いていく。 「理彩ちゃん、上手になったね」  演奏の邪魔をしないよう小さな声で呟けば、でしょう、と鈴ちゃんがどこか自慢げに頷いた。 「この前から、エリーゼのためにを練習し始めたんだって」 「へえ、すごい。まだ小学生なのに」 「そうなんだよ。わたしがエリーゼを弾けるようになったのって中学生になってからだったし、多分あの子、わたしよりずっと才能あるよ。ピアノ」  心から嬉しそうにそんなことを語る鈴ちゃんはいいお姉ちゃんだな、と思いながら私は彼女に続いて階段を上った。そして二階にある彼女の部屋に入ったところで、そういえば、と鈴ちゃんが思い出したように声を上げた。 「知ってる? 永原くんもピアノ弾けるんだよ」 「えっ、そうなの?」  驚いて聞き返すと、鈴ちゃんは肩に提げていた鞄を下ろしながら 「小さい頃から習ってたんだって。わたし、前に聴かせてもらったことあるんだけど、すごく上手だったよ。びっくりしちゃった」  そうなんだ、と相槌を打ちながら、私は鈴ちゃんが口にした別の部分が引っ掛かっていた。  ――鈴ちゃん、永原くんにピアノを聴かせてもらったこともあるのか。  ぼんやりと、そんなことを考える。  鈴ちゃんの交友関係は広くて前からすべてを把握しきれてはいなかったけれど、そういうことをしてもらえるくらい永原くんとも仲が良かったなんて、知らなかった。  そういえば、さっき私は永原くんのことを友達だと言ってしまったけれど、あれくらいの付き合いで友達だなんておこがましかったかもしれない。永原くんは困っていた私を助けてくれただけで、きっと鈴ちゃんと永原くんみたいな仲の良さとは違う。  そんな考えに至って、ちょっと恥ずかしくなってきた私は 「だったら、お似合いだね。鈴ちゃんと永原くん」  早口に言うと、鈴ちゃんは照れたように笑った。桜色に染まった頬やら落ち着きなく下唇を掻く仕草やらはやっぱりびっくりするほど可愛らしくて、そうかな、と恥ずかしそうに呟く彼女に、私は、うん、と大きく頷いてみせた。 「ぴったりだよ。絶対うまくいくよ」  力を込めて続ければ、鈴ちゃんは軽く顔を伏せ、ますます照れたように笑った。しかしそのあとで、ふっと思い出したように顔を上げる。それから、「でも歩美ちゃんは」と急に真剣な口調になって口を開いた。 「歩美ちゃんは、いいの?」  ひどく言いづらそうに口にされたその質問の意味はよくわからず、「なにが?」と聞き返せば 「だから、ほら……歩美ちゃんも、永原くんのこと好きとか、そういうことは、ないのかなって」  不安そうな目でこちらをじっと見つめながら、鈴ちゃんはぼそぼそと続けた。私はしばしぽかんとしたあとで、急いで大きく首を振る。 「ないよ、全然。大丈夫」 「そっか」  それならよかった、と呟いて、鈴ちゃんはようやく机の椅子に腰を下ろした。そうして心底ほっとしたように息を吐く彼女を眺めながら、本当にいい子だなあ、と私はもう何度目になるかわからない感慨を抱く。それだけで、心の隅にあったほんの少しの寂しさもあっけなく姿を消すのを感じた。  そりゃ永原くんのことは優しい人だなとは思っていたけれど、そういう鈴ちゃんみたいな気持ちはない。たとえあったとしても、鈴ちゃんの好きな人だというなら、それだけで迷うことなく諦めるに決まっている。鈴ちゃんは本当にいい子なのだ。その上可愛くて明るくてしっかりしていて、少なくとも私が勝てるような要素なんて一つもない。こんな子が彼女だったら、きっと男の子は誰でも幸せ一杯になれるだろう、なんて思った私は 「私、鈴ちゃんと永原くんがうまくいってくれたら、すごく嬉しいよ」  心からの気持ちを込めて、そう言ってみた。鈴ちゃんは目を丸くして私の顔を見つめたあとで、「本当?」とゆっくり聞き返す。うん、と私が意気込んで頷けば、彼女はふわりと表情を崩した。 「よかった。ありがとう、歩美ちゃん」  そう言う鈴ちゃんの嬉しそうに弾む声を聞きながら、やっぱりこれでよかったのだと強く思う。私も笑顔で首を振ってから、いつものようにベッドに腰掛けた。すると鈴ちゃんが思い出したように 「あ、そうだった。高菜食べる?」  と尋ねてきたので、私はすぐに首を振った。 「い、いいよ、ありがとう。ていうか鈴ちゃん、本題は高菜じゃなくて、この相談のほうだったんでしょう」  言うと、鈴ちゃんは一瞬目を丸くしたあとでちょっと恥ずかしそうに俯き、「歩美ちゃんにしては鋭いな」などと呟いていた。  会話が途切れると、下からかすかにピアノの音色が流れ込んでくる。そのまま、しばしゆっくりとしたペースで紡がれる穏やかなメロディーに耳を傾けていると 「理彩ね、この曲が弾けるようになったら、こうちゃんに聴かせるんだって」  急に思い出したのか、これまでの会話の流れをまったく無視した口調で鈴ちゃんが言った。そうなんだ、と私が相槌を打つと、鈴ちゃんは苦笑を浮かべ 「ていうか、あの子がこの曲練習し始めたのも、こうちゃんがこの曲好きだって言ったかららしいんだよね。難しいからまだ早いんじゃない、って言ったんだけど、全然聞かないんだよ」 「理彩ちゃん、浩太くんのこと大好きだもんね」  なんだか微笑ましい気持ちになって笑ったあとで、自分の口にした名前に、あ、と声を上げる。 「そういえば鈴ちゃん、浩太くんにも言ったの? 永原くんのこと」  尋ねると、鈴ちゃんはきょとんとして首を振った。 「ううん、言ってない。今、歩美ちゃんに初めて話したんだよ」  そう答えてから、「実はね」と鈴ちゃんはまた少し頬を染め 「気づいたのも今日なんだ。歩美ちゃんが最近永原くんと仲良くなってきたから、なんだか落ち着かなくなっちゃって、それで、ああ、わたし永原くんが好きなんだなあって思って……なんか、人から盗られそうになった途端あわてたみたいで、嫌な子だけど」 「そんなことないよ」  鈴ちゃんがなんだか自嘲するように笑ったから、私は急いで口を挟んだ。それから話題を変えるように 「でも、浩太くんがこのこと知ったら、がっかりしちゃうだろうね」  何とはなしに呟けば、「へ、なんで?」と心底きょとんとした調子で聞き返された。 「なんでって」私が返事に詰まっていると 「別にこうちゃんは何とも思わないでしょ。歩美ちゃんならともかく」  と、鈴ちゃんはあっけらかんとした調子で笑った。 「え、私?」 「うん。歩美ちゃんに彼氏でもできたときはさ、多分すっごく寂しがるよ、こうちゃん。娘を嫁に出した父親みたいになっちゃうんじゃないかなあ」  言いながら、そんな浩太くんの姿が想像できたのか、鈴ちゃんは肩を震わせて笑い始めた。父親、と私は思わず彼女の言葉を繰り返す。「ああ、でも」と笑いの混じる声のまま、鈴ちゃんはすぐに続けた。 「そのときはわたしも寂しいだろうなあ。なんか、歩美ちゃんがわたしたちの元から巣立っていく感じで」  巣立っていく、と私はまた呆けたように彼女の言葉を繰り返す。同い年の幼なじみから言われているとは思えない言葉だった。けれど私たちに関して言えば、本当にその言葉がふさわしい気がしてしまう。そういえば前に永原くんにも似たようなことを言われたな、とぼんやり思い出して、心の中で苦笑しながら 「あの、鈴ちゃん」 「うん?」 「私、協力するから。その、あんまり役には立てないかもしれないけど、でも、できるだけ頑張るから」  意気込んで告げると、鈴ちゃんは少しぽかんとしたあとで、満面の笑みを浮かべた。  ありがとう、と軽くこちらへ身を乗り出した彼女の笑顔は本当に嬉しそうで、私までじわりと胸が暖かくなる。同時に、まぶたの裏に少しだけちらついていた永原くんの優しい笑顔も、今度こそきれいに消え去った。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!