愛情

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 仕事をしていても気になるのは千代さんの事ばかり。  周りの職員も私の姿を見つけては「千代さん大変でしたね」と声をかけてくれる。近藤さんに「千代さん待ってると思うからお見舞いいってあげて」と言われた。  今日はあまねくんが来ない日だし、帰りに病院に寄っていく時間はある。  今日行かないとなんとなくもう会えない気がした。今までは発熱しても骨折しても何とか乗り越えてきた千代さん。その度に心配して、元気になってくると一緒に笑いあった。  今回だって何だかんだこのまま回復して、すぐに戻ってくるかもしれない。そうは思うものの、悪い予感は消えなかった。  仕事が終ると、申し送りもそこそこに皆に断りを入れて千代さんのいる病院に向かった。  病棟だけは聞いていたため、ナースステーションで声をかける。忙しい病院では、施設の職員が声をかけて、仕事の手を止めてしまうことを嫌がるのか、看護師の表情は堅かった。 「家族ですか?」 「いえ、すずらんの職員です」 「今、家族しか入れないんですよ。帰ってもらうか、家族がいいって言ってくれれば会うこともできるかもしれないですけどね」  金色に近い短髪で小太りの女性。40代半ばくらいだろうか。  愛想のない看護師だった。忙しいのは施設だって一緒だ。 「待っているので、家族に確認してもらえますか?」 「あー……じゃあ、ちょっとお待ち下さい」  顔を歪める彼女を見て、今の私はすごく邪魔なのだろうと察する。  廊下をバタバタと色んな看護師が走り回っている。もしかしたら急患がいるのかもしれない。  やはり忙しいのか、それから30分以上待たされても、その看護師がやってくることはなかった。  少しずつ不安と苛立ちとが混在した感情が込み上げてくる。一目会わせてくれればいいのだ。  治療中でも、たくさんの管が繋がっていても、千代さんの顔を1度見せてくれたら、会えてよかったと思えたらそれだけでいい。  そう思うのに、それすらも許して貰えないような緊迫した状態が続く。  ぼーっとナースステーションの前で待つ私を何人もの看護師が怪訝そうにこちらを見やり、何人かの面会者が視線も合わせず通りすぎ、決して居心地のいいものではなかった。  こんなに待たされるなら帰ろうかななんて思うのだけれど、家族しか入れないという言葉が、それだけ状態の重さを語っているようでその場から動くことも気が引けた。  もうすぐ1時間が経とうとしている。そんな時分に「お待たせしました。家族がいいと言ってくれたのでどうぞ」とあの看護師に声をかけられた。  文句も言わず、催促もせずにおとなしく待っていたからであろうか、少しだけ彼女の表情は柔らかくなっていた。  了承してくれた家族に感謝しながら病室に案内されれば、千代さんの周りを8人程の家族が囲んでいた。  これは場違いかもしれない……一瞬そう思ったが、何度か見たことのある息子さんが「わざわざ来ていただいてすみません。ありがとうございます」と声をかけてくれたため、「大変な時に押しかけてしまい、申し訳ないです。一目会いたかったものですから」と軽く頭を下げた。 「今日ちょっと容体が急変しましてね……よかったら声をかけてあげてください」  そう言って、千代さんの横を開けてくれた。  状況を見るからに、恐らく今は最期の別れの時で、いつ亡くなってもおかしくはない状態のため、来られる家族と親族が集められたというところだろう。  そんな場面に立ち会うことを許してくれた家族には感謝が込み上げ、目の前にいる千代さんの顔をいざ見たら、何の言葉も浮かんで来なかった。  楽しかった思い出、たくさんあったね。そろそろ桜の季節だねなんて言うから、着ぶくれするほどに上着を着て、マフラーでぐるぐる巻きにして、近くの川沿いに河津桜を見に行ったね。  せっかく満開なのに寒いから帰ると言う千代さんをなだめて、こっそり持ってきていたお饅頭を半分こしたね。  ここにいたってつまらんって言うから、近くのスーパーにお菓子を買いに行ったね。  子供みたいに両手いっぱいにお菓子を抱えて、そんなに買わないよと私が言えば、あなたはふてくされてそれを1つずつ返した。 「あんた、あたしゃあね、コーヒーが飲みたいよ」とテレビで喫茶店特集を見ながらそういうから、できたばかりのカフェに一緒に行ったね。  その頃には自分が言ったことなんてさっぱり忘れて「こんな洒落た店に連れてってもらったことなんてないだよ」と言って嬉しそうに笑ってくれたね。  私の顔を見ると「あたしゃあね、あんたん大好きだよ」と言って手を握ってくれるから、「私も千代さん大好きだよ」と言い返す時は、いつもよりも優しい気持ちになれたよ。  思い出はたくさん出てくるのに、肝心な時に肝心な言葉は1つも出てこなかった。  暖かい千代さんの手を握って「千代さん、お見舞い来たよ……」そう声をかけたけれど、頬や口唇に血液の跡があり、まだ新しい吐血の様子が伺えたものだから、また言葉に詰まり、次の言葉を探した。 「辛かったね……頑張ったね……」  そう声をかけるのがやっとで、何も言わない千代さんの顔を見ていることしかできなかった。周りの家族は皆涙を流していて、その環境に呑み込まれそうになる。  死期が近いことは確信に変わり、あとどのくらいもつのだろうか……そう思っている内に心電図モニターがピーと高い音をたてた。  家族の距離がぐっと千代さんに近付いて、私の意思とは反して一気に涙が溢れた。  一本の平行線になってしまった千代さんの波形の上にはasystoleの文字。  心静止の意味だ。千代さんの心拍を機械が読み取れなくなった証だった。
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