8447人が本棚に入れています
本棚に追加
/266ページ
彼のマンションに直行した。今日は行くつもりがなかったから、着替えも何も持っていない。
仕事帰りのため、作業着を着たままだ。けれど、そんなことはもうどうでもよくて、今は彼に会いたかった。
着いたことを連絡すると、彼が中から鍵を開けてくれた。
そのまま彼の部屋まで行き、ドアの前でチャイムを鳴らせばすぐに彼が出てきて、「いらっしゃい」とそれだけ言った。
彼は、既にスウェット姿で、シャンプーの匂いがした。
病院で暫く待たされたから、時間は確認してないかったけれど、おそらく彼も仕事から帰って来てすぐにシャワーを浴びて、それから私の電話に出たのだろう。
作業着のままの私をリビングに通し、ソファーに促した。彼の姿を見たらまた涙が溢れてきた。
「おいで」
彼は、至極優しく甘い声でそう言って、ソファーの上で私を抱き締めた。暖かくて、いい匂いがして、心地いい。
ずっとこうしていてもらいたいくらい、この場所が好きだ。
「……好き」
「ん?」
「あまねくん、好き」
「俺もまどかさん大好きだよ」
頭を優しく何度も撫でられて、とても落ち着く。彼の匂いを肺いっぱいに吸い込んで、体の中から満たされるようだった。
「家族いっぱいいてね……ちゃんとお別れ言えなかった」
「うん。急だったんじゃないの?」
「でもね……何も言葉が浮かんでこなかったの……」
「手握ってあけだんでしょ? 言葉にしなくても伝わるよ」
「……本当?」
「本当。俺だって、悲しくて辛い時に1番に連絡くれて、こうやって頼って来てくれて、まどかさんからの言葉なんかなくても、俺のこと信頼してくれてるってちゃんと伝わってるよ。だからきっと大丈夫」
彼のくれる言葉はどれも魔法みたいだ。彼が大丈夫だと言ってくれると、これでよかったのかもしれないと思えるから。
数日前は、言葉が足りなかったせいであんなにもすれ違ったのに、今は言葉なんかなくても彼が私を大事にしてくれていることが痛いほどに伝わってる。
また、彼もそれが伝わっていると言ってくれた。
「……苦しくなかったかな?」
「それはわからない。でも、楽しかった思い出は消えないよ」
「……うん。……大好きだった」
「まどかさん見てたらわかるよ」
「……もう仕事頑張れない」
「……うーん、頑張らなくていいんじゃない?」
「……いいの?」
難関の国家資格を有して、専門職について、多忙な時期を乗り越えて、日々頑張っているあまねくん。
きっと私以上に頑張っている彼が、頑張らなくていいなんて言う。
「いいよ。いっぱい頑張ったから今辛いんでしょ? 暫く頑張んなくていいよ。今まで頑張った分、休ませてあげて」
そう言ってもらえると、幾分か心が軽くなった。千代さんのためにできることはしたつもりだ。
誰よりも時間をかけて接したし、外出もたくさんした。千代さんの変化にできる限りの対応はしたし、最期にも立ち会えた。
彼がそんな私を頑張ったと認めてくれるなら、千代さんの死も少しずつ受け入れていかなければならないと感じた。
最初のコメントを投稿しよう!