誘惑

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誘惑

 誰も居ない廊下がどこまでも続く。蛍光灯の光では足りず、先の見えぬ暗闇に阻まれている。指先は赤くかじかんで、赤く染まり痛痒い。固く握った両の手を、ミツキは羽織ったパーカーのポケットにつっこんだ。  彼女一人の足音と、風音が混ざり鼓膜に届く。左右の窓から見える景色は黒一辺倒に染めあげられて、内と外との明暗差から織りなす虚像がミツキの姿を映しだす。それは合わせ鏡を成して、虚像が虚像を結びあげ、ありもしない世界ごと無際限に作りだしていた。  何度も通り慣れている。校舎の五階へ続く道、終着点は最も高い屋上だ。鍵で常に閉ざされて、一度も入ったこと無いが今は開いているらしい。危険だからと封印された扉の奥で、自分を待ってる人がいる。  振り返ることはしなかった。正確にはできなかった。背後から闇が迫るようで知るのが怖かった。それに自分の背後を知っていても、知らなくとも、いずれにしても戻るつもりは無く、無意味な事であったからだ。  一歩、歩くたびに髪が揺れ、蛍光灯がまたたいた。表情一つ変える事無く、まだ見えぬ先の扉を見つめる。蛍光灯と窓だけの、代わり映え無いその道を淡々とした調子で前に進んだ。  短い階段を登り始める。ほんのわずか数段を、一段毎に踏みしめていく。最終段にに足をかけた時、ぼんやりとした闇に浮かぶ、金属製の白い扉がミツキの前に現れた。  銀の取っ手に掛けられた、立ち入り禁止の看板が傾き斜めに下がってる。暖かなポケットから冷たい空気に諸手を晒し、痛みを覚えるほど冷える扉に手で触れる。金属製の扉は厚くて重い。ミツキは両手に力を籠めると、軋みを上げて開き始めた。  少しずつ開く扉の隙間から、冷風がすり抜け雪が舞う。天蓋を厚く覆った雲の奥から、月の光が透過していた。雪は薄く降り積もり、かすかに光輝いている。半球状に空ごと包む安全柵はペンキが剥がれ、赤く黒くざらついた荒いサビが包み込む。幅広の柵の合間から雪は雨より遅く降る。耳を澄ませば聞こえる雪の音が、夜の闇に響いていた。  新雪に初めての足跡を残しつつ、目的の人物を目で探す。唯一闇に浮かぶ学校は、乏しい光でありながら明瞭かつ鮮明に、それでいて闇と雪が視界を阻み曇らせている。人工の光はどこにもない。建物や車のライトは当然のこと、蝋燭やランタンの火でさえも、学校の他は全て闇に沈み切って、月を除けば光をもたらすものは何もなかった。  やがて柵の外側に人影が浮かぶ。屋上の縁の上に座る見慣れた少女が、ミツキに背を向け髪を風になびかせている。柵を握り締めたとき、赤黒い鉄のサビが手を染め上げた。
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