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ぼくは拳をにぎる。
それが相手に伝わっていなければ信頼関係じゃなくて、ただの空振りだ。
された相手は辛いだけ。
後回しされてもいい理由になるわけないじゃん。
あんたはそれがわかんないの?
*
今日も彩先輩が四年生女子に苦笑していた。
女子たちはもう遠慮なしに横入りで信太郎先輩に相談をはじめていた。彩先輩は所在なげに手にした海水試料のバイアル瓶を眺めている。
この人は本当に。
いつまで我慢するつもり?
論文投稿締切りに間に合うの? 何日徹夜するつもり?
あなたのそのがんばり、報われたことがあるのかな。
そう思ったら駄目だった。
彩先輩の細い肩があまりにはかなげで。うつむいたその背中がいまにも消えてしまいそうで。
ひと気のない実験室だ。
窓に雪がたたきつけて、強い風が二重窓をも揺らしていた。実験室の中は装置のアイドリングするリズミカルな音だけが響いている。天井からの真っ白い照明が彩先輩をつめたく照らし。
ぼくは彩先輩を背中から抱きしめた。
「ゆ、佑基くん?」
「──こうしていれば、あったかいかなって」
そうだけど、と彩先輩は身体をこわばらせる。
それだけだ。逃げようとはしない。
この人は、と苦笑になる。
こんなときでも、この人は──。
顔がゆがむ。
なんて見覚えのある習性だ。なつかしくて──吐き気がする。
それと同時に。
身体の奥底からじわじわと波がわきおこる。
腕から伝わる彩先輩のぬくもり。顔に当たるセミロングの先輩の髪。柔らかくてくすぐったくて。その首筋からほんのり甘い匂いがして。ほんの少し首をかたむけるだけで顔をうずめられそうで。唇を押し当てることもできて。
それをこらえてぼくはそっと声を出す。
「彩先輩、嫌だったら嫌っていっていいんですよ」
「……え」
「ここで逃げたらぼくに悪いかなとか、そんなこと、考える必要、ぜんぜんないですから」
へ、と彩先輩が身体をいっそう固くする。それから目だけでぼくを見て。
「……なら」
そういって前のめりになる。ぼくは両手を開いて彼女を離した。
彼女がふり返る。ぼくは微笑む。
何かをいいたげに彼女は唇を動かして、けれどそのまま何もいわずに。
ぼくは実験室でひとりになる。
*
喉が震える。笑い声が出る。
わかっているさ。
どれだけいいつくろっても変わらない。
ぼくははじめて会ったときから彩先輩が。
けなげで頑張りやでお人よしで。いつも人のことばっかり考えていて。損ばっかりしていて。
だからこそ──。
ああくそ。
だけど彼女が好きなのはぼくじゃなくて。
唇をかむ。
だから?
ならぼくは、あきらめるの?
彩先輩の笑顔、彩先輩の指先、彩先輩の論文、彩先輩の口癖。
彩先輩が脳裏にあふれる。
ぼくは両手で顔をおおう。
天井をあおいで覚悟を決める。
相変わらず──運命は容赦がない。
(了)
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