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兄弟
サクが湖に消えたのを見届けてからトーマは言った。
「ほら、早く君も行きなよ。タイザ」
「は?」
タイザは呆気にとられてトーマを見る。意味が理解できなかった。
「夜海の人間は君もだろ。サクだけじゃなくて君も戦のカギになってしまう。傷つくことに変わりはない。僕は兄さんにそんな人生、辿ってほしくないんだよ」
「…」
「僕のせいで、兄さんは相当辛い思いしてきたでしょ。もう苦しむ兄さんを見たくないんだ。顔には出さなくても傷ついてることくらい分かってた。兄さんは人一倍優しい人だし、それに…兄弟だから」
「…」
タイザの顔に怒りの色が浮かぶ。トーマは淀んだ。サクを行かせるために作っていただけで、彼もまた、根は優しい人間なのだ。
「ふざけるなよ…何、勝手に決めてんだよ!」
タイザの瞳から涙が溢れる。義父にどれだけ酷い扱いを受けても泣かなかったタイザが初めて見せる涙だった。
「トーマのせいでオレが酷い扱いを受けてるって、そんなのどうってことない。恨んだことなんてない!むしろ、味方がいて…トーマがいて、オレは嬉しかったんだ。オレがいなくなって、全てを自分でやるつもりか?最悪お前、両親殺して死ぬ気だろ?」
「…」
「そんな事させない。オレらが居なくなったって争いはいつかは絶対に起きるんだ。だったら、お前が背負う必要なんてない!」
「そうする事が、僕の役目だ」
トーマがそっと目を伏せる。
「だったらオレも残る」
「聞いてなかったのか!兄さんは!」
「夜海の人間、だから何だよ!サクを生かしたかったのは分かる!あいつには笑ってて欲しいから!でも、オレはそうならなくてもいい。何処に弟に重荷押し付けたがる兄貴がいるんだよ!」
「じゃあ何処に兄さんの幸せを願ってない弟がいるんだよ!」
終わりのない言い合いで二人は火花を散らす。
「分かった、じゃあトーマも一緒に向こうに行こう」
タイザは妥協案を言った。けれど、トーマは首を横に振る。
「無理だよ。さっきサクに言った、湖に入って死んだ人間は居ないっていうの、嘘なんだ。夜海の人は余程僕達を憎んでるらしい。夜海以外で入った人は皆死んでる」
「…」
「それに、誰か一人くらい、戦を鎮められる人が居ないとね。全てを終わらせられる人が」
「それは、トーマじゃなきゃ本当に駄目なのか…?」
「時属性をもつ人って僕以外に居ないみたいだし。全てを支配出来る人なんて僕以外にいないでしょ?心配しないで。僕は最悪の事態にならない限り生きるから。ちゃんと」
「…」
「それに…兄さんを行かせるのは兄さんのためだけじゃないんだよ?」
「どういう事だ?」
「サクの為だよ。行った先でもし何かあったら…一人じゃ辛いだろ?」
「それならお前だって…」
いいはずだろ、と言おうとしてタイザは口をつぐんだ。
「サクが兄さんに惹かれてる事くらい分かってた。僕といる事で彼女を不幸にさせちゃいけない。だから、兄さん。お願い…」
タイザはぎゅっと目を瞑った。
「済まない、トーマ…」
トーマはニッコリと笑った。
「ありがとう、兄さん」
湖に足をつける。はっと思い出してタイザはトーマを振り返った。
「トーマ。一つ頼みがあるんだけど」
「何?」
「多分砂原に…もう一人夜海の人間が居ると思うんだ。オレの…双子の妹が…リツって言うんだけど」
「…」
「オレの血でそいつの事判るかな?」
「多分。風属性の方も僕受け継いでるから。匂いで」
「良かった…そいつにあったら伝えてほしいんだ。この湖のこと」
タイザは人差し指の皮を歯で噛み切って、出た血をトーマの服の裾につけた。
トーマはそれを見て言った。
「分かった」
「それじゃあ…」
タイザは湖に映る自分の顔を見た。
「今迄ありがとう。トーマが弟で本当に良かった」
僕もだよ、という言葉がトーマの口から出る前にタイザは湖に沈んだ。
もう、後ろは振り返らなかった。
タイザが行ってすぐに、トーマは服に付いた血の匂いを嗅いだ。
「この匂い、何処かで…」
家族、兄弟の匂いは違うけれど、似ている。雰囲気みたいなものだろうか。タイザのそれを、確かにトーマは何処かで嗅いでいた。
はっと思い当たることがあってトーマは目を見開く。
そういえばここは夜海の村だった所だ。
ここの時間を戻せば、分かるはずだ。
念を込める。
あの夜…自分が生まれる三年前、ここであった事を…タイザが居た場所の…時間を戻す。
残像が、浮かび上がってきた。
ちょうどこの近くのようだ。
二人の小さい子供が手をつないで空を見上げている。
明るい、満点の星空。
顔立ちが似ている。双子だろうか。
辺りには死体の山と、地面が見えない程の地の海。
幼い子供が見るにはあまりにも残酷な景色だった。
「ねぇリツ。みんな、ちゃんと幸せになれるかな…」
そう言っているのは多分タイザだろう。面影がある。
「そうだねナツ。前にかあさまが言ってたもんね。いい子にしていれば、お空のお星様になれるって」
ナツ…タイザの事だろう。凪咲に引き取られたときに名前を変えられたのかもしれない。あの人がやりそうな事だ。
手をつないでいる二人のところに、凪咲と砂原、二つの村の軍人が違う方向からやってくる。
「何だお前ら。その瞳…もしかして夜海の人間か?」
二人は怯えて身体を寄せ合う。
「殺すか?」
「いや…こいつらはまだ子供だ。でも脅威であることに変わりはない。おい、凪咲の軍人」
「何だ」
「夜海の生き残りだ。一人ずつ連れ帰るのが無難だろ。戦はもう終わった。これ以上の争いは禁じられている」
「分かった。おい、行くぞそこの坊主」
凪咲の人間にタイザ…ナツが引きずられていく。どうやら砂原と凪咲のこのときの戦は、夜海を潰すためだったというのは本当みたいだ。
ナツは泣き叫んだ。
「嫌だ!リツと一緒に居るんだ!リツ!リツー!」
リツもリツとて引っ張られている。でもリツは泣いていなかった。
「ナツ!いつかきっと!また会えるから!それまで生きて!ナツ!」
残像はそこでぷつりと切れた。
それを見ていたトーマの瞳から知らないうちに涙が溢れていた。
戦の酷さは、ここまでか…
あの二人はこんなに酷い経験を通り越して生きてきたのだ。
逃して正解だった。
けれど。
あのリツと呼ばれていた女の子。彼女は…
「サクに似ていた…」
面影も。声も。
それに何より、タイザがつけた血。その匂いは、前に嗅いだサクの涙の匂いと酷似していた。
間違いない。あの二人が、夜海の生き残りの双子…
思い返してみれば、確かにタイザとサクは色々と似ている。顔立ちも、境遇も、性格も。
…もしかしたら自分はしてはならない事をしてしまったのかもしれない。
そうトーマは思った。
あの二人が結ばれることは許されなかったのに。
運命とはなんて皮肉だ…
いつの間にか暗くなっていた空を見上げて、トーマは溜息をついた。
ナツとリツが見上げていた空と同じ、満点の星空。
月は見えなかった。
好きだから、大事だから、笑っていてほしかった人たちを一番不幸にしたのはもしかしたら自分かもしれなかった。
誰かのことを思っていても、残酷な結末を変えられない。まるで疫病神だ。
いつの間にか喧騒は大きくなっている。さっきは怒号も叫び声も聞こえなかったのに。
凪咲が砂原に到着したんだろうか。
どっちにしろ、あの二人がこれを聞かなくてよかったと心から思う。
たとえ二人が結ばれなくても。
自分の手でサクを幸せにできなくても。
悲しい運命を辿ることが決まっていても。
それでも二人の幸せを願うことをやめられない。
笑顔でいてほしい。
大好きだから。
「幸せになって。ナツ、リツ」
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