プロローグ

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 それさえも奪ってしまうのかと絶望して、母の怒りを買うことをわかっていながら、ノートに触らないでと文句を言った。思いっきり叩かれても、罵倒されても、珍しく声を上げて抗議をする美来の声は、母の感情を余計に煽り、手だけではなく美来を蹴り飛ばすほど酷くなった。  美来は蹴られた反動で壁にぶち当たり、背中を打ち付けたショックで息もできず、それでもまだ上から降ってくる打撃を防ぐために、両肘を上げて顔と頭を守ったが、苛立った母が腕の下に隠された柔らかな頬をめがけて指で叩こうとする。  このままでは殺されるのではないかという恐怖。異常なまでの暴力に対する怒り。自分にはこんな仕打ちしかしないのに、まだ幼い弟への手を返したような母の態度を見続けていた不満が恐怖に打ち勝って、震える声で訊いた。 「なんで?どうして弟ばかり可愛がって、私にひどく当たるの?」  はぁ?と馬鹿にしたように目を眇めた母親が、面白い憂さ晴らしを見つけたように口をゆがめて吐き捨てる。 「そりゃ、要らない子だからに決まってるでしょ」  ショックだった。いつかは弟みたいに、ほんの少しできたことで褒めてもらえたり、可愛がってもらえるんじゃないかと、期待しながら頑張ってきたことが、全部無駄だと知った瞬間だった。 「私はもらい子なの?」  あんたさえいなければという、いつもの母親の口癖から浮かんだ疑問を声に出して訊いた。 「さぁね。あんたみたいに可愛げのない子供なんて拾うんじゃなかったわ」  もらったんじゃなくて、拾ったんだ。本当のお母さんも私を要らないって捨てたんだ。そう思ったら、堪えていた防波堤が壊れて涙があふれた。 「おや、泣いてるの?珍しい。もっと泣け!」  そう言って楽し気に声を張り上げた母親は、丸まった美来に蹴りを入れた。  もはや抵抗もしなくなり、手で庇うこともなく床に横臥した美来を、嬉々として足で転がした女の恍惚の表情を美来は決して忘れない。  だから美来は縋っても、泣いても、愛してほしいと願うことも、私には許されないのだと知った。  もうとっくに分かっていたはずなのに、今日、学校で友人たちがお母さんと買い物に行った話や、お母さんに文句を言うそぶりで話しながらも、母親自慢をする姿にあてられ、ほんの少しの愛情の欠片を求めて、椅子に座る母の背中に吸い寄せられてしまったのだ。 「気持ち悪いね。何?」  残酷な言葉に切り付けられて、癒えることのない傷から膿が噴出する。でもそれ以上に育った憎しみの刃が母親に向けられた。その途端、美来に何かが乗り移ったかのように、残忍な言葉がスラスラと湧いて出た。 「首絞めてやろうと思ったのに。失敗したわ」  瞬間、驚愕で固まった母親の顔を目にした美来は、どろどろに煮えた絶望や怒りや憎しみでただれた身のうちに、爽快感が広がるのを感じた。  何だ、やり込めるのなんて簡単じゃん。初めての勝利らしきものは、必死になって追い求めた愛情をも変形させた。愛なんて弱いものに縋りついていたら、とことん傷めつけられる。それならこちらが強気に出て、相手を怯ませて手出しをさせなければいい。
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