交わした約束

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 妻から以前、美来を叱るときに、美来が逆切れして暴力を振るうようになったと聞いていたので、急いで美来を妻から引き離すと、その頬を引っぱたいた。 「お母さんに何をするんだ!」  美来は、叩かれた頬を押えて、信じられないというように父親を見たが、途端に目を眇めて、父親に向かってヒステリック叫んだ。 「あんたたちなんて、大嫌いだ!暴力おやじ!あんたもこいつと一緒だ」  美来が父親にも向かってきてこぶしで殴ろうとするので、相手が子供であるのに関わらず思いっきり突き飛ばした。美来は人形のように弾き飛ばされて机の角に脇腹を打ち付け、そのまましゃがみこんだ。  やり過ぎたと蒼白になった父親が、美来に駆け寄り抱き起こそうとするが、上に引っ張られた美来が、痛いと叫んで脇腹を押えて丸まった。しまった!これは打ち身だけじゃないかもしれないと焦った父親が、美来を車に乗せて近くの外科病院まで連れていった。  レントゲンを撮り、肋骨にひびが入っていると診断された美来は、ガードルのようなコルセットを身体に巻かれ、痛み止めを処方された。  痛みを堪えている美来が、娘を心配して、おろおろとする父親の手に縋ろうともしないのを見て、尋常じゃないと感じた医師が、父親を診察室から追い出すと、美来にどんなことが起きたのかをやさしく尋ねた。  母親だけでなく、いとも簡単に父親に傷つけられた美来にとって、大人は信頼のできない存在になっていた。何か言おうものなら、また大変な目に合うのではないかと疑う気持ちを隠そうともせずに、医師をじっと見つめる。その視線を含め、医師は美来の一挙手一投足を観察し、答えを導き出そうとしていた。  レントゲンを撮った際、美来の身体の他の箇所も注意深く調べたが、薄い痣はあるものの、最近できた打撲傷は無いように見えた。  父親の言うように、子供を振り払った際に起きた突発的な事故にしては、子供の警戒心、大人を見る猜疑心に満ちた目が、最初でないことを語っているような気がして、医師は質問を変えて、美来の様子を注意深く観察した。 「お母さんも心配してるかな?迎えに来てもらうかい」  途端に、美来が弾かれたように思いきり首を振ったが、つられて身体まで捻ってしまったらしく、走った痛みに呻いて脇腹を押えた。怪我をした子供なら、親に慰めてもらおうとするものだ。特に子供にとって母親は、一番自分を分かっていて受け止めてくれる存在のはずなのに、美来の激しい拒否は表に出ない何かを物語っていた。 「そうか。じゃあ呼ばない代わりに、先生を信じて本当のことを言って欲しい。お父さんとお母さんから、これまでに何度か叩かれたことがあるかい?」  美来は、急に心臓があぶるのを感じた。  この先生は何を聞き出そうとしているのだろう?言ってしまったら、両親からもっと叩かれたり酷い目に遭うんじゃないだろうか?  本当のことなんて誰が決めるんだろう?お父さんだって、私に暴力を振るうお母さんをかばったのに……。  多分、お母さんが暴力を振るうと私が本当のことを言った途端、子供のくせに、親を悪者にするなと怒リ出すのだろう。  まるで彫刻になってしまったように、硬い表情で動かなくなった美来を見て、同じような患者を診たことがある医師には、美来が恐れていることが手に取るように分かった。  叩かれたことが無いと否定しないで黙りこむのは、どんな災難が自分に降りかかるのかを心配している証拠だ。こんなに小さいのに我慢して、我慢して、恐ろしい未来から自分を守るために、事実を隠そうとしているのだ。 「先生は何を聞いても怒らないよ。もし、迎えに来て欲しい人がいたら教えて欲しい。連絡を取ってあげるから」 「ほんと?」 「ああ。誰に来て欲しい?」 「おばあちゃん。遠くに一人で住んでいるの」 「分かった。電話番号はわかるかい?おばあちゃんは叩いたりしない?」 「しない。蹴ったりもしない」  医師の誘導だともしらないで、美来は日常起きていたことを知らず知らずのうちに医師に漏らしていた。  聞き終えた医師は、別室に父親を呼ぶと、美来が母親から暴力を受けていることを話し、児童相談所に連絡の義務があること、そして、レントゲン写真はいつでも警察に提出できる証拠になることも告げた。  妻の愚行と、自分が犯した間違いにショックを受けた父親は、その場で自分の母親に電話をかけて事情を説明すると、美来を預かってほしいと頼んだ。
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