プロローグ

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プロローグ

 気分はいつも、ささくれだっていた。  張りつめた神経が危険を察知すると、痛みも感情もシャットアウトして、何も感じないように、自然に心の防御へと切り替わる。  だけど、母につけられた心の傷は、油断をした途端に、また同じ箇所をズブリと刺され、無防備だった自分を嘲笑うかのように膿が湧く。その深みをなぞって確かめながら、もう二度と弱みを見せないように、出した膿で塗り固めていく。  それでも、子供心に親の愛情が欲しくなり、手を伸ばそうとすれば、瞬時に過去の怒りの棘が現れて、真心を守るために鎧のように取り囲むのだ。  美来の両親は共働きをしているので、美来が小学校から帰っても、出迎える者はなく、いつもマンションの中はがらんとしていた。玄関を上がり、薄暗い廊下からリビングに入ると、締め切った部屋特有の匂いがこもっているのに気が付いて、美来は洗濯ものを入れがてら、窓を開けて空気を入れ替える。  今日は、お友達の家に遊びにおいでと誘われたけれど、行きたくても行けない訳を話して断った。近所の幼稚園に、美来より五つ年下の五歳の弟を迎えに行って、母親が帰ってくるまで面倒をみなければならないからだ。  母は仕事から帰ると、玄関に出迎えた美来の横を通り過ぎ、いそいそとリビングに行って、弟の康太を抱きしめて愛情の交換をする。次は自分の番だと思って待っていても、振り向いてもくれないばかりか、本来なら母親の役割である弟の世話を押し付けて、美来にはあれやこれやと文句ばかり言う。  もともと気が強く、男性と渡り合って仕事をしていた母親は、美来を妊娠してから体調を崩し、出産後の経過も思わしくなかったので、出世を諦めて会社を辞めざるを得なかった。  美来を身ごもったことを平気で汚点と言ってのけ、物心がついて、ある程度のことが分かるようになった美来の前でも、あなたさえいなければ、今頃は課長にでもなっていたかもしれないと、ずっと後悔を口にしながら当たり散らしてきた。  否定ばかりされて育った美来は、他人よりいい子になって母に認めてもらおうと努力して、勉強もスポーツも芸術も、全ての面で頑張っているのに、一度も褒めてもらったことがない。  その反対に弟は、母がお菓子を渡したことにありがとうとお礼を言っただけで、お利巧ねと褒められる。次は私の番だ。今日こそ褒めてもらおうと、美来が九十八点のテストをどきどきしながら母に渡すと、どうしてあと二点くらい取れないの?とチラ見しただけで、突き返された。  寂しくて、子供らしく甘えたくて、気が付いたら食卓の椅子に座った母の背中に抱きついていた。途端に母は身を捩って美来を肘で引き離す。 「何?気持ち悪いね」  どうしたのと肩越しに振り向いて、引き寄せてくれるのを期待していた十歳の子供には、想像通りにならないどころか、気持ち悪いと言われたショックで茫然自失になってしまう。  泣けばいいと思う。どうして可愛がってくれないのかと、すがり付けばいい。普通の子供ならそうしている。でも、それが無駄だということは身をもって体験済みだ。  あの時は、詩を綴った美来の大事なノートを、くだらないことを書いてと母に破り捨てられた。  やり場のない気持ちを唯一吐き出した文章は、比喩で埋め尽くされていた。まるで、無数のイミテーションの木の中に本物の木があるように、隠した本音を探し出せないように用心しながら書いた心の避難場所だった。
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