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あたりは一面の蓮華畑。紫の絨毯をしきつめたような丘の斜面に寝そべって、二人で海を見ている。
海は静かで、はるか彼方の水平線まで見える。蓮華の花の眠るように甘い香りが漂う。
いましがた、海に溶け入る太陽を見たばかりだ。夕凪の海はそよとも風はなく、物音一つ聞こえなかったけれど、それは目の前に広がる天と地の境にくりひろげられる壮大なドラマのようで、ぼくたちはただ固唾を呑んで見守った。
熱く燃え上がった真っ赤な火の玉が、ジュウジュウとすさまじい音を立てでもするように、しかし本当は音もなく海に融けていった。空は巨鳥が金色の翼を広げたように輝き、海は無数の鏡の破片を浮かべたように鋭い光を乱反射した。
やがて大空の鳥は翼をおさめ、太陽を追って海に消え、水の面に宿る光は波の間に散っていった。
いまは穏やかな半透明の青い空が、急速に色褪せ、海は徐々に影を濃くする。
草の匂いが鼻腔に広がり、記憶のなかの光景が甦ってくる。
- 約束をおぼえていてくれたんだね。
- ええ、もちろん忘れやしないわ。毎日兄さんの声が聞こえていたのだもの。あのころ、私はまだ何も知らないねんねだった。
− ぼくだって何も知らない若造だった。人生が一日なら、まだこれから朝の太陽が昇ろうという時刻に、かけがえのない人生の一日をもう使い果たしてしまったかのように思い込んでいた・・・
- 兄さんは何も言わずに私の手をひいて、この丘に連れてきたわ。ちょうど今日みたいに・・・
- あの日も海は静かだった。きょうみたいに、あたり一面蓮華の花が咲いていたね。
- なにもかも今日と同じだったわ。そして兄さんは唐突に、「神さまっているのかな?」って訊いたでしょう?
- そんなこと言ったのかな。それで、なんと答えたの?
- わからない、って。
妹の目はいたずらっぽく笑っている。
− いいの。神さまがいなくても・・
そう言って彼女はそっとぼくの手をとり、頭をぼくの肩に凭れて、目を閉じたのだ。
目を閉じて蓮華の中に埋もれているぼくを気遣うように、妹はそっと起き上がり、ぼくのそばを離れていく。目をひらいてみると、むこうで小さな背中をこちらに向けてしゃがみ、せっせと蓮華の花を積んでいる。
ぼくはあまりの心地良さにうつらうつら眠気に襲われる。
気が付くと、いつのまにかまた傍に来て、蓮華の花むしろの上に横坐りした妹の膝を枕に、ぼくはすっかり寝入ってしまったようだ。
彼女は教会の壁画に描かれた聖母マリアのような微笑を浮かべてほくを見下ろしていた。そのほっそりと白い首から蓮華を幾つも幾つもつないだ花輪がかかっていた。ぼくが身を起こすと、彼女は花輪を自分の首から外し、黙ってぼくの首にかけた。
-あのとき、兄さんも一緒に神さまのところへいってしまうんじゃないかと思ったわ
- ・・・・
あれからもう何十年も過ぎ去ったのだな、とぼくは思った。
父が逝き、母も逝き、ぼくらはこの世で二人きりになった。
そして妹もまた。
ぼくは生きた。汚れた。そして薄汚い老人になった。
水平線すれすれの空と海の境を一艘の小船がいく。水平にゆっくりと滑るように視界を横切っていく。船をこぐ小さな人影が幻影のように見える。
空の色が褪せて白く濁り、海の色は次第に濃く黒ずんでいく。羽虫の音が耳のそばに聞こえ、蓮華畑にも薄い闇の気配が降りてくる。さきほどまで凪いでいた海のほうから微風が渡ってくる。その風に、妹の姿が微かに揺らぎ、影のように透き通っていく。
------ お別れなんだね。
------ うん。
------ よく来てくれた。
------ うん。
------ こちらのことはもう心配しないで。
------ うん・・・
------ またじきに会える。
------ うん・・・
妹はコックリコックリうなづいてばかりいる。
(了)
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